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「よいしょっと」

 車のトランクに最後の一つの荷物を積み込み、そっと閉じる。背中を一筋汗が流れた。どこにいるのか姿の見えない蝉の声が降り注いでいる。響き渡る「時雨」という形容に思わず頷いてしまうような蝉の声は生まれ育った故郷にはなかった。蝉時雨、青い空に沸き立つ夢のような入道雲、干からびたコンクリートの道路。テレビなどで知る夏の風景は、故郷の夏にはなかった。だから暑いのは得意ではないが「夏らしい風景」は何度も経験しているのに新鮮だった。

 くるりと体の向きを変える。玄関と向かい合う。

 結婚してすこしして購入した家。夫との、息子との思い出の詰まった家。

 こだわって選んだ玄関扉、白い壁、茶色の屋根。シンプルでそう広くない家だが気に入っていた。親子三人で過ごしていくには十分すぎるほどの大切な我が家。家をぐるりと見渡す。

「すこしの間、留守にするからね」と胸の内で語りかける。

 玄関横の表札にそっと触れる。最初はサイズの合わない服のように馴染まなかったのに、今となっては己の一部となった苗字が漢字で彫られている。

「いつになるかわからないけれど、帰ってきたら、迎えてちょうだいね」

「もうっ。別に手放すわけじゃないのに大げさなんだから」

 後ろから妹の呆れたような嘆息がする。

「気持ちの問題よ」

 振り返らずに言うと、妹は興味なさそうに「ふうん」と頷いた。


 仕事を辞め、息子の転校の手続きをして、引越しの準備をしてと過ごしているうちに夏の盛りになった。学校は夏休みになり、昼間でもプールなどに通う子どもたちの声が家の前の道路からするようになっていた。

 今日、故郷へ帰る。

 車に荷物を積み終え、あとは出発するだけ。

 妹とともに家の中に入る。外の明るさに慣れた目では家の中が薄暗く感じる。

 留守にするといっても近所に住む妹が管理してくれることになっている。妹の存在が心強くありがたい。

 キッチンに行っても息子の姿はなかった。二階の自室にいるのだろう。

「希美」

 数歩後からキッチンに入って来た妹を呼びながら、振り返る。

「なに?」

 妹は軽く笑いながら首を傾げた。幼い頃から名前を呼ぶとこうして「なに」と小さく首を傾げてくれる妹が可愛くて大好きだった。それは、いい大人になった今でも変わらない。可愛い妹の仕草だ。

「家のこと、よろしくお願いします」

「うん。お願いされます」

 妹は姉の言葉をうけて真面目な声で一つ頷く。それから部屋をぐるりと見回すように視線をめぐらせた。

「和ねぇには言ったことなかったかもしれないけれど」

 そう前置きしながら希美はこちらをじっと見つめて、すこし恥ずかしそうに笑った。

「このお家は私にとっても大切な家なんだよ」

「どういうこと?」

 妹からそんな言葉がでるとは思わなかった。確かに妹は夫が死に、わたしの仕事が忙しくなる前からよくこの家を訪れた。姉妹の家に来ることに理由なんて求めなかったから妹がこんなふうに思っているとは考えもしなかった。

「わたしたちの母さんと父さん」

「うん」

 妹が久方ぶりに口にしたであろう人たちの呼び方に虚をつかれた。

 わたしたち姉妹の両親はわたしたちが幼い頃に亡くなった。そして湖畔の村に住む祖父母に引き取られ、両親の代わりとなり育ててくれた。

 寂しくはなかった。祖父母と妹がいれば幸せだった。だから両親を話題にすることはほとんどなかった。忘れたわけではない。自分たちをおいて逝ってしまった両親を憎んでいるわけでもない。けれど考えてしまえば悲しくなる。ならば幸せなほうを見つめて生きるしかない。だから、あまり想うことなく生きてきた。

「わたしたちが小さい頃にいなくなっちゃったから、わたしにはテレビドラマとかで見るようなパパとママと子どもとっていう、ありふれた幸せな家庭っていうのがいまいちぴんとこないんだよ。もちろん、おばあちゃんもマイクも大好きだけどさ。やっぱり、ちょっと違う気はしてしまうんだよ。同じ家族なのに不思議だよね」

「うん」

 たしかに、ちょっと違う。

「で、そんな理想というか、家族って形が、この家にはあった。わたしは多分、憧れてたんだろうね。その風景がこの家にはあったんだ。だから、この家が大好きで愛おしくて、大切なんだよ」

 テーブルの端を指先で撫でながら妹は静かな声で言った。

「かずねぇとアキがいない間、この家はわたしがちゃんと守るから。だから、姉さんはアキをちゃんと守ってあげて」

「うん」

 妹の言葉にひとつ、こくりと頷いた。




 延々と続く高速道路を車で走りながら、ルームミラーをちらりと見る。

 後部座席には無表情な小さな焦げ茶色の熊がいる。

「アキ、暑くない?」

「だいじょうぶ」

「音楽かけてもいいかな」

「うん。なに、聞くの」

 歌手の名前を告げると、晶はオウム返しに呟いた。聞き覚えのない名だったんだろう。

「荷物の整理をしていたら出てきたのよ。懐かしくて聴きたくなっちゃった。外国の歌手でね。私が子どもの頃、マイクがよくレコードで聞いていて、好きだったのよ。そういえば、あなたのお父さんも好きでよく車でかけてたわね。これはお父さんのCDね」

 そう、あの人が好きでよく車で聴いていた。家族三人で、車で遠出をするときいつもかかっていた。アキは憶えているだろうか。

 優しい歌声と穏やかなメロディ。

 懐かしい。

 子どもの頃、田舎の家でマイクの横で耳を傾けていた。時折り混ざるレコードならではの微かな雑音も嫌いでなかった。

 この音楽の流れる車を運転するあの人の横顔。

 懐かしい。

 久方ぶりに聞くのに身体に馴染んだメロディと歌声に耳を傾けながら運転している。


 小さな事件が起きたのはある曲が流れ始めてすこししてからだった。


 後ろからぐずぐずと鼻をすする音が聞こえてくる。

「アキ? どうしたの。どこか痛いの」

 熊のままだから息子の顔はわからないが、泣いているような様子に、驚いて声をかける。後ろを振り向きたいが、ぐっと堪え、ルームミラーで息子の様子を確認する。熊はちょこんと座り、シートベルトをかけている。

「平気。どこも痛くないよ」

 答えたアキの声はやはり鼻声だった。けれど具合が悪いわけではないらしく胸をなでおろす。

 車の中には優しいメロディと歌声が流れている。

「泣いているの」

「……うん」

 ひとまず次のサービスエリアに入ろう。そう決めて、標識を確認しながら車を走らせていると、アキがぽつりと言った。

「この曲聴いてたら、思い出したんだ」

 この曲。車内に流れている曲は最後のサビに差しかかっていた。

「この曲、父さんが運転する車で聴いてた」

 前を見つめたまま息子がぽつりぽつりと語ることに耳を傾ける。

「旅行に行った帰り、いつのまにか眠っちゃってて。目をさましたら夕方で、車の中が夕陽に染まっていて、その中で車を運転する父さんの後ろ姿を見ていたらなんだか胸がぎゅっとなったんだ。その時、この曲がかかっていた」

 なぜか泣きたくなってしまって。だから目をぎゅっと閉じて眠ったふりをしたんだ。

 紡がれた言葉に視界が揺らぐ。

 だめだ。運転中なんだ。堪えなければ。

 あの人の運転する車。夕陽に染まる車内。穏やかな寝息をたてる幼い息子。「旅行楽しかったね」と言いながら真剣に運転をする横顔。

 郷愁を誘う、夕陽のような女性の歌声。

 夫の姿を思い出し、胸が締めつけられる。けれどそれ以上に、アキが父親との思い出をきちんと憶えていたことが嬉しい。

 音楽は不思議だ。

 聴いていたときに見た風景、景色、かいでいた匂いなんかを一緒に記憶に焼き付ける。そして何年経ていようと、その曲を聴くと普段は思い出さないような記憶を鮮明に甦えさせるのだから。

 ハンドルから片手を離して、片目ずつ軽く擦って涙の気配を拭う。

「アキ」

「うん?」

「わたし、今、ものすごくアキを抱きしめたいわ」

 今すぐにはできないから言葉にしてみる。

「熊のまま?」

「できれば、アキが良いけど。でも、そのもふもふに癒してもらうのも悪くないわね」

 そう言うとアキはくすくすと笑った。

 もう、涙は止まっているだろうか。

「いいよ。もふもふ、触って」

「ありがとう」

 親子はそんな会話をしながら、優しい曲の流れる車の中で笑い合った。

 次のパーキングエリアで熊をぎゅーっと抱きしめて、ほして少し眠った。






◆◇◆◇◆



「マイクさん、出来ましたね!」

 似たようなくたびれたティーシャツと膝までのズボンからよく日に焼けた腕と足を出した二人の男が、夏の日差しの中で負けないくらいに暑苦しい笑顔で言った。

「おう、おつかれさん」

 汗を拭いながら男たちに応える。

「無茶な頼みなうえに急がせて悪かったな」

「気にしないでください」

 年長の男がからからと笑いながら言う。

「マイクさんの頼みだったら、どんな無茶でも聞きますよ」

「間に合ってよかったっス」

 もう一人のまだ二十歳にもならない青年が明るく言った。

「おう。これなら和美も文句ねぇだろう。まぁ、言わせないが」

「文句どころか、すっごいステキじゃないっスか」

 青年の言葉に、マイクも年長の男も声を出して笑う。

「おまえの口からすてき、だなんて気持悪いなぁ」

 年長の冗談に、青年は口をへの字に曲げた。もちろん、ほんとうに気を悪くしたりはしていない。

「ひどいなぁ」

 この二人は親子で、村の大工だ。

 三人の目の前には、ペンキ塗りたての白い小屋。

小屋の後ろに広がる湖から吹いてくる風が水の気配を含んでいて火照った身体に心地良い。

 電話口で聞いた孫の計画。

 少しくらいは手助けしてやろうという祖父の思いやりというやつだ。

 孫と、ひ孫が帰ってくることが楽しみで家でのんびり過ごしていられないというわけでは、決してない。









 先に断っておきますと、この作品は舞台は現代日本のつもりですが、現実的ではありません。

 片親なのに仕事やめて大丈夫?みたいな突っ込みはナシの方向でお願いします。

 あと、今後、周りの人たちは晶の熊の着ぐるみをすんなり受け入れます。

 基本的に「いい人」しか出てきません。

 それは田舎的な大らかさという表現ではなく、フィクションだからです。

 よろしくお願いします。

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