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「学校、行けなくてごめんなさい」
晶は重ねた手を見つめるように俯き、ぽつりと言った。落ち込んでいる時の声音だった。
「アキが謝ることではないから、気にしなくていいの」
「……うん。けど、母さんが仕事を辞めるのも、ぼくのせいでしょ?」
「それも、アキが謝ることではないよ。というか、仕事ばかりしていたわたしが悪いので、謝るのはわたしのほうです。アキはね、何一つ悪いことはしていないし、気にしなくていいし、謝ることもないの。いい?」
俯いてしまった息子の顔を覗き込むようにして問うと、息子はちいさく「うん」と頷いた。
「……かあさん」
息子は顔を下げたまま、ぽつりと呼んできた。
「うん」
「ぼく、ぼくが悪いって思っているんだ。それなのに、母さんが仕事を辞めるって言ったとき、すごく嬉しかった」
嬉しい。息子が口にした彼の思いの言葉に、思わずきゅっと手に力を入れてしまう。息子のまだ幼い柔らかな小さな手がたまらなく愛おしい。
愛した人の面影をもつひとり息子。今までだって大切に思っていた。大事に思い育ててきた。けれど、それは気持ちだけだ。わたしは彼の盾にならなければいけなかった。彼が深く傷つき血を流さないように彼を守らなければいけなかったのに、わたしはそれをしていなかった。だから、今度こそ、彼の盾にならなければいけない。
生きていれば蹴躓くことくらいある。それは、人が強くなるための試練だ。けれど、蹴躓いて、怪我をしてしゃがみこんでしまったら、一人でもう一度立ち上がるのは難しい。幼いなら尚更だ。
私は息子を守って、立ち上がらせなければいけない。
使命感に燃えているとか、どうしたら息子が学校に行けるようになるだろうかと悩んでいるとか、そんなわけではない。
行きたくないなら、行かなくてもいいと思う。
子どもの頃、学校という場所は絶対だった。狭い教室、先生、友達。それが、己の世界の全てだった。けれど大学四年間を過ごすうちに、教室の友だちが絶対なんて思わなければいけなかった子ども時代がアホらしくなった。それくらい大学は自由だった。そして、社会は、それこそ大海のようだった。小学校中学校の閉塞感は一度外に出てしまうと異様にしか思えない。だから、あの空間が絶対なのだと息子が思ってしまうのは嫌だ。あの異様な空間に息子が傷つけられていたことが悔しい。
ただ、わたしは、息子が生きていることを嫌にならないようにしたいだけだ。
だからわたしが、母親がそばにいて、一緒に生きる。
幼い息子には、それが一番必要なのだと思うから。
晶はゆっくりと顔を上げた。すこしぎこちなくも、微笑んでいた。
「ぼくも、もっとちゃんと母さんと一緒に生きたいです」
「うん。ありがとう、晶」
ぎゅっと息子の手を握ると、強く握り返される。
「約束。ね、母さん」
「うん、晶。二人で生きていこう」
学校へ行かないことを決めた息子といくつか約束をした。
ご飯は一緒に食べる(熊は脱ぐ)。
勉強もする。
お手伝いもする。
自分の好きなこと、熱中できることを探す。
「約束。いいね?」
「うん」
「じゃあ、朝ごはんにしようか。今日はアキの好きなモッツァレラチーズ入りのオムレツだよ。卵割るの手伝ってくれる?」
昨晩のおつまみのカプレーゼに使ったモッツァレラチーズの残りを入れて、バターで焼いてふわとろに仕上げる。息子はこのオムレツが好きらしく、食べているときはオムレツと同じようにふわとろな幸せそうな顔をしてくれる。その表情が好きだ。
朝食を終えると息子は熊には戻らず、庭に出て鉢植えの草花のスケッチをしていた。熊のきぐるみだと鉛筆が握れないから仕方がないのだろう。
洗濯物を干しながら、庭の隅で陽光に包まれながら一心に鉛筆を走らせている息子を見守る。からりと晴れた初夏の日差しは激しくはないが、眩しく、洗濯物を干しているとじわっと汗ばんでくる。座って集中している息子も暑いだろう。けれどそんな様子は微塵も感じさせないくらい楽しそうに鉢植えの花と、スケッチブックと向き合っていた。
晶は絵を描くのが好きだ。特に植物、草花のある風景が好きらしく、休日には庭の鉢植えを何時間も飽きずにスケッチしていたりする。この家の近くには自然の植物が生えているところはあまりなく、晶の絵はいつも庭の鉢植えばかりだった。
晶は、故郷に帰りたがっている。
もう覚えていなくてもいいような幼い頃に過ごしただけの故郷を、求めている。
知っていた。庭の鉢植えを描いているのを見るたびに感じていた。
晶が故郷に帰りたいと口に出したことは一度もない。亡き夫と私の仕事のために今の家にいることも、私の仕事が忙しくて故郷に帰る時間がとれないことも理解して、息子はわがままを言わない。それでも、数年過ごしただけの場所の写真を大切そうに机に置いているのは、忘れられないからだろう。植物を描くのは、自然に包まれた故郷をいつも思っているのだ。
わかってはいた。わかっていながら、晶を故郷に連れていってあげる時間がとれなかったのも事実だ。
瞼を閉じれば、あの地を吹き抜ける風が思い起こされる。
洗濯物を干し終え、洗濯籠を家の中におきながら、息子を呼ぶ。
「そろそろ中に入ろう。熱中症になっちゃう。夕方、涼しくなったらまたしよう」
晶は小さく頷いてスケッチブックを閉じて立ち上がって、ぱたぱたと近寄ってくる。やはりじっとしていても暑かったらしく、汗で前髪が額に張り付いている。手で前髪を掻き揚げるようにしてぐいっと額を拭ってあげる。息子の肌は子どもらしくするりとしていた。
晶は黙って母親の手を受け入れていたが、すこしくすぐったそうにしていた。その反応に思わず笑みが零れる。
家の中に戻ると、息子は汗を流すために顔を洗いに行く。その間に台所に立つ。
冷蔵庫から小さなタッパーと透明な硝子瓶を取り出す。タッパーの中には薄く切ったレモンを蜂蜜につけたシロップが入っている。棚からグラスを二つ取り出して、氷をいくつか入れる。そこに蜂蜜少量とレモンを二枚入れ瓶の炭酸水を注いで、スプーンでそっとかき混ぜる。
そこにアキが戻ってくる。
「レモンスカッシュつくったから飲もう」
リビングに持っていき、座りながらテーブルにグラスを置くと、息子は向かいにちょこんと座った。
息子はグラスを両手で持ってくいっと一口飲んで、「おいしい」と小さく笑った。その表情に笑い返し、グラスに口をつける。
甘すぎずレモンの酸味と炭酸が爽やかで、とにかく冷たくて、汗ばんだ体に沁みる。
「うん。美味しい」
そう自画自賛すると、息子はくすくすと笑った。
「アキ。朝は言わなかったけど、母さん、もう一つ決めたことがあるの。聞いてくれる?」
「うん。なに?」
息子がじっと見つめてきた。真直ぐに視線を合わせる。幼い息子は臆することなく私の眼をとらえる。
「アキは、いなかに帰りたい?」
「え?」
「私の故郷。アキの故郷の村に帰りたい?」
そう問うと、アキは視線を落とし、グラスを覗き込むように俯いてしまう。
もうわたしの心は決っている。けれど、アキの気持ちも同じでなければ意味がない。それに、もう何も遠慮しなくていい。やりたいことを、わたしにして欲しいことを、わがままを素直に言って欲しい。
「素直なアキの気持ちを教えてほしい」
息子の小さな肩がぴくりと動くのがわかった。
「……すなおな、気持ち」
「うん。アキは、どうしたい?」
「ぼくは……」
アキは朝の陽光の色が満ちたグラスを、そこに答えが浮かび上がるのを待つかのようにじっと見つめていた。
溶けた氷がグラスにぶつかるカランという微かな音がする。
アキは一度ぎゅっと瞼を閉ざした。そして顔を上げながらゆっくりと瞼を開く。わたしを真正面からじっと見据えた瞳は父親に似て優しげで、けれど今は意志を宿した揺るがない光があった。やはり熊の黒い瞳にはないあたたかさがあるから、対するならばこちらがいい。
「ぼくはあそこに帰りたい」
息子のはっきりした言葉に、深く一つ頷く。
やはり息子は帰りたいのだ。はっきり言ってくれたことが嬉しい。
「なんでこんなこと訊くの」
首を傾げる息子の動作が可愛らしくて、目尻が下がるのがわかった。
「アキがずっと帰りたがってたの、知ってるの」
知っていたのに、仕事が忙しいからと、アキが何も言わないからと気がつかないふりをしていた。
わたしはアキにどれだけ我慢を強いてきたのだろう。
アキはどれほどわたしに言いたい言葉を、伝えたい気持ちを飲み込んでいただろう。
だから、これからは全てを聴いてあげたいのだ。
「アキはお父さんやわたしに気をつかって言わなかったでしょう?」
そう言うと息子はぎゅっと眉を寄せ、すこし困ったような、泣き出す直前のような表情を浮かべて、顔を僅かに俯けた。
「あっ、そんな顔をしないで」
アキは、故郷に帰りたいという自分の気持ちを言ってしまうとわたしに迷惑をかけると思っている。その自分の思いをわたしに気づかれてしまったから辛そうな表情になってしまったのだ。
そんな思いをアキがすることはないのに。
ほんとうに、優しい子だ。
悲しげな表情に息が苦しくなるような気がするともに、息子が愛おしくてたまらなくなる。
そっと手を伸ばして息子のやわらかな頬に触れる。
「アキがそんな顔をする必要はないの。アキは私に訊かれて気持ちを正直に言ってくれただけなんだから、あなたが困ることなんて一つもないんだからね」
「……うん」
「わたしのほうこそごめんなさい。アキの気持ちに気づいていたのに、聞いてあげようとしなかった。ほんとうにごめんなさい」
息子は声を発することはなかったが、頬に触れている私の手に彼の小さな手をそっと重ねた。その触れ方、手のぬくもりが優しくて、「気にしなくていいよ」と言ってくれているような気がした。
気のせいではないだろう。息子は「気にしないで」と、手に触れてくれた。
「仕事も辞めることだし、アキが賛成してくれたらあっちに帰ろうかと思って、アキの気持ちを訊いたの」
あっちに帰るという言葉に、アキは勢いよく顔を上げてぱっと目を見開いた。
「……帰れるの?」
「ええ。仕事も辞めるからね。あっちでゆっくり過ごすのもアリかなぁって思って。どうかな」
驚きを含んだ嬉しそうな顔に思わず笑みを深くしながら、提案するように言う。すると、アキにもこんな激しい動きができたのかと思わず感心してしまいそうになるくらい、息子は勢いよく数度頷いた。
「うん、うんっ。そうしたい!」
「ええ」
親子はふたりで笑い合っていた。