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 夢をみた。

 幼い頃過ごしていた故郷の風景。

 空を写した穏やかな湖面。それを囲むような深い緑の木立。瑞々しい緑の匂い。どこからか聞こえてくる鳥の囀り。時折、湖面をかすかに揺らしながら吹き抜けていく風。そして湖畔に建つ小屋のような小さな白い家。

 「和美、希美」と私たちを呼ぶ、優しい祖母の声。

 懐かしい故郷の風景。湖畔の小さな村。湖のすぐそばの小さな白い家は、祖父が営む地元の人たちに愛されるサンドイッチ屋。

 美しく優しい、幼い頃の思い出。




 ベッドに座り両手で顔をさする。深く息をはく。

 息子のことを考えるとほとんど眠れなかった。これからどうすればいいのか。考えても考えてもいい答えは浮かんでこなかった。眠気なんて微塵もなかったはずなのに、明け方、水中で足を引っ張られるような抗い難い強い眠気におそわれて、水底に沈んでいくようにまどろみ、夢を見た。

 朝日がカーテンを透かし、部屋は蒼色に染まっていた。光の差し込む、湖の色だ。

 ベッドから降りて、棚の上に二つだけ置いてある写真立ての一つを手にとる。

 白い小さな家。その向こう側に広がる湖の艶のある紺碧と緑の木立。

 机の上のもう一つの写真に目を向ける。

 息子に似た、優しそうだけどちょっと気弱そうな笑みを浮かべた、夫。

 ねえ、いいよね、あなた。

 夢を見て、目が覚めた時に決めたこと。

 写真に問うても答えが返ってこないとわかっていても己の判断が間違っていないか教えて欲しかった。

 あなたがいてくれたら。ふと、思いかける。

 首を二三度横にふる。そんなことを考えている暇があるなら息子のことを考える。そう、決めている。だから俯かずに過ごしてこられた。

 写真をもとの場所に置く。

 わたしの支え。大切なもの。

 わたしは晶のためにできることをする。


 だから、見守っていてね、あなた。




 着替えをして顔を洗い歯を磨き、身支度を整える。

 リビングへ行き、カーテンと窓を開ける。ぱっと朝日が差し込み、部屋には光があふれる。外は雲一つない青空が広がり、庭で育てているハーブや花の鉢植えはきらきらと降り注ぐ陽光をうけながら微かな風に揺らめいていた。

 あとで水をあげるからね。

 小さくてかわいい草花たちに胸のうちで声をかける。それからリビングの隅の棚の上に置いてある電話に向かう。

 受話器を取る前に深呼吸を一つする。

 こうすると決めたけれど、ほんとうに良いだろうかと微かな迷いが首をもたげた。

 考えても仕方がないのに。また悩み始めようとする自分に苦笑してしまう。

「よしっ」

 深呼吸をもう一度して、気合いの声をだす。

 受話器を取り、十数年を過ごした慣れ親しんだ家の電話番号の数字を押していく。幼い頃に覚えてしまった番号は体が覚えていて、指が自然に動いた。

 受話器を耳にあてると、優しげな呼び出し音が繰り返し鳴る。あちらの家では、ちりんちりんと黒電話が音をたてているはずだ。

 壁にかけてある時計をちらりと見ると、七時過ぎだった。電話の相手は今頃、朝食を終えて、コーヒーを飲みながらゆっくり過ごしているはずだ。あの人が確実に家にいる時間は、朝にコーヒーを飲むときくらいだから、電話をするならこの時間しかない。まあ、朝のコーヒータイムを邪魔するとそれはもう不機嫌になるのだけれど。

 かわいいひ孫のためならあの人だって話を聞いてくれるだろうと晶を言い訳にしながら呼び出し音を聞く。

 たっぷり三十秒ほど呼び出し続けると、ようやく呼び出し音が途切れ、「はい、もしもし」と普段より更に低い声がした。

「おじいちゃん? 和美だけど。久しぶり」

「和美か。久しぶりだな」

「うん。コーヒータイムを邪魔してごめんね」

「まあ、久しぶりの孫に免じて許してやるさ。おまえもアキも元気か?」

「……うん。病気とかはしてない」

「微妙な言い方だなぁ」

 電話の向こうで祖父が苦笑を漏らした気配がした。

「うん。おじいちゃんに相談とお願いがあるの。聞いてくれますか」

 故郷に住まう祖父に電話をしたのは、正月以来になる。帰省できなかったからその代わりの新年のあいさつを電話で済ませて以来だ。

 電話かけた理由を言うと、祖父は「ああ」と深い声で応えてくれた。聞きなれた祖父の声だ。

 和美が幼い頃に亡くなってしまった両親に代わって、和美と希美を育ててくれた祖父と祖母。祖父が孫の話しを真剣に聞こうとするとき、祖父は穏やかだが深みのある声で促してくれる。

 書斎を覗き込んだとき、「入っておいで」と。

「相談があるの」と言うと「ああ。なんだい?」と。

 晶を産むより前、結婚をするよりも以前、高校進学を機に故郷を出るよりも前に、祖父と祖母と故郷に守られて過ごしていた頃に戻ったような気がした。

「おじいちゃん。わたしねーー」


 電話を終え、庭に出る。雲一つない青空が広がっている。日差しが暖かく、乾いた土と草の匂いがした。心の中で決め、祖父に伝えたことが、再出発であるならば、気持ちの良い門出の日だ。

 空に向かって両手を突き上げる。

「んーっ」と声を出しながら思いっきり伸びをする。

 晶と二人で生きるんだ。

 花やハーブの鉢植えにホースで水をやる。きらきらと光を反射しながら水の粒が降り注ぐ。湿った土の匂いが立つ。すべての鉢植えに水を降らせ、家の中に戻ろうとかと顔を向けると、開けっ放しにしてあるリビングの窓のところに、茶色い熊が立っていた。

「おはよう」

 あどけない熊の姿に思わず笑みを浮かべながら声をかける。返事は期待していなかったが、もごもごと「おはよう」という声が聞こえた。

「アキ。すこし、話しをしましょうか」

 リビングに戻ると、小さな熊は律儀にも床で正座をしていた。

 叱られる覚悟の表れだろうか。

 こんな格好で叱ったことなんてないけれど。

 ソファに座り直させようとしたが、ふとこれもいいかと思う。

 熊と膝を付き合わせるようにして、真向かいに正座をする。わたしの覚悟の表れだ。

「さて熊さん。熊さんはわたしの声はよく聞こえるかしら?」

 言っていることがちゃんと伝わるかの確認だ。熊は小さく頷いた。

「ならそのままでいいわ。まず、謝ります」

 宣言して、上半身を床に向かって勢いよく下げる。

「ごめんなさい。ダメな母親でほんとうに、ごめん」

 言い、ゆっくりと体を起こす。

「希美から聞いた。アキが学校に行きたくない理由」

 そう言うと熊はかっくりと顔を俯けた。

 息子はどんな表情を浮かべているだろう。叱られると怯えているだろうか。息子がいじめられていることに気がつかなかった母親を責める暗い目をしているのだろうか。

 けれど、どんな瞳をしていようと、わたしはそれを受け止めなければならない。受け止められるのは、わたししかいないのだから。

「ずっと、わたしに気づかせないように我慢してきたアキが言うんだから、もう学校には行きたくないのね?……というより、行けないのよね」

 息子の意思確認をしてみる。熊は俯いたまま、けれどはっきりと頷いた。

「なら学校なんて行かなくていい。もう、我慢はしないでちょうだい」

 声が震えてしまう。弱い自分に思わず苦笑を浮かべる。

 だめだ。しっかりしなくては。

 熊の頭をそっと撫でてみる。

「でね、アキ。ちょっと話しは変わるけれど、わたし、一つ決めたことがあるの。聞いてくれる?」

 明るい声できりだす。すると熊は顔をあげ、「なに?」というように首をかしげた。その仕草が可愛くて、ふふっと笑ってしまう。

「わたし、仕事をやめるわ」

 きっぱりと言い切る。

 声に出して宣言する。息子にも、そして自分にも、断固とした意思であることが伝わるように。

「仕事をやめて、もっとちゃんとアキと一緒に生きたいの」

 昨晩、妹に言われた「アキとかずねぇは一人で生きている」という言葉が、ベッドに入ってからも頭を離れなかった。

 二人で生きていこうと約束した。それなのに、幼い息子がひとりで傷つき、ひとりで悩んでいた。

 わたしが彼をひとりぼっちにさせていた。

 だから、今度はちゃんとそばにいたい。そばにいて、今度こそ、二人で生きる。そう、決めた。

 俯くよりも、前を向く。そう決めているから。

「アキ……晶。わたしにもう一度チャンスをくれませんか」

 膝が擦れ合うほど近くに座っている息子の、今はきぐるみの熊の両手を両手でとり、ぎゅっと握り締める。息子の目ではないけれど、熊のきらきらと光を反射している瞳をじっと見つめる。

 晶はすこしの間まったく動くことも、しゃべることもしなかった。考えているのだろう。

 そして晶は、重なった手をそっとふりほどいた。それから、おもむろに立ち上がる。

 拒絶されてしまった。息子はわたしをとうに見限っていたのか。

 手をふりほどかれたのがショックで何も言えないまま、立ち上がった息子を見上げることしかできなかった。

 晶は両手で熊の頭を外して、床に置いた。それから背中に手を伸ばす。熊の体は背中にチャックがついていて、着脱する形になっていた。晶は体が柔らかいし、手先が器用だから簡単に背中のチャックを下ろし、茶色の毛羽立った熊の体を脱いだ。さすがに熊のきぐるみは暑いらしく、姿をあらわした息子は半そで短パンだった。

 脱いだ熊の体をくるりと丸めて、頭の横に置く。それから、もう一度、互いの膝を擦るほど近くに正座した。

 昨晩は寝顔しか見られなかったから一日ぶりに起きている息子の顔を見た。表情は薄いが、俯きかげんの顔はすこし恥ずかしそうに眉を寄せていた。

 母さんが悪いと、責められることも覚悟している。

 なんで気づいてくれなかったの。なんで、僕のことを見てくれないの。そう言われたって仕方がないから、受け止めるつもりでいた。

 けれど、熊を脱いで息子に戻った晶は父親譲りの優しい顔を曇らせてなどいなかった。

 暗い目などしていなかった。






 晶は、先ほど母親がしたように、そっと、しかし強く、母親の手を握る。

 しなやかだが皮膚がかたく爪はきれいに切られ、いつもかすかに漂白剤の匂いをまとう働き者の手が、晶は好きだった。







 普段、視点や語り手の切り替えはページや切りのいい場面単位でやるんですが、このページの最後の晶視点はどうしても入れたくて。でもこの辺ではまだ晶視点で書くつもりはないので短い部分ですが無理矢理入れました。




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