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「まさか、言ってないとは思ってなかったわ」

 息子が熊になった理由の心当たりを問うと、妹はそう切り出した。

 昼間、晶の面倒を見てくれていた希美は缶ビールをグラスに注ぎながら呆れたように嘆息した。

 希美は近所に住んでいる妹で、在宅でできる仕事をしているから普段から晶の面倒をよく見てもらっていた。

「希美は聞いてたわけ」

「ん。自分で話すからお母さんには言わないでってアキに頼まれたから黙ってたんだけど」

「それで、ほんとうに黙ってたの?」

「そりゃあね。約束は守ります」

 子どもっぽく笑う今年三十路になる妹に呆れてしまう。

 グラスに半分ほど残っていたビールをぐいっと飲み干す。ビールはぬるく、炭酸も鈍くなっていて不味い。口の中には嫌な苦味しか残らなかった。


 仕事を終えてまっすぐ帰宅すると、妹と息子は夕食を終え、妹はその片付けを、晶はお風呂に入っていた。

 夕飯を食べていると晶がお風呂から出てきたが、やはり熊のままだった。

 幸い、明日が休みだったから、ちゃんと話を聞くのは翌日にした。

 小さな熊は、今は息子に戻って部屋で眠っている。

 息子が寝付いたのを確認してから妹に、息子が熊になった理由に思い当たることはないかと問うてみた。すると希美は、おつまみに簡単に作ったカプレーゼのトマトを頬張りながら「あるよ」あっさりと頷いたのだった。

 「まさか、言ってないとは思ってなかった」と、苦い笑みを零しながら教えてくれた。

「最初は去年の冬くらいかな。かずねぇがクリスマス時期で忙しそうにしてた頃、たまたま背中に青あざがあるのを見かけたんだよね」

 どうしたのかと尋ねると、友だちと遊んでいたら転んだと晶は答えた。まあ小学生の男子なんだし、よくあることかと「怪我には気をつけなよ」と軽く注意するだけに留め、大して気にしなかったらしい。

「次に気になったのは、冬休みに入る直前。かずねぇも覚えてると思うけど、ランドセルに牛乳をこぼしたって帰ってきたことあったでしょ」

 これなら覚えていた。クリスマスの直前だった。仕事から帰ると、晶は泣き腫らした顔で「給食のときにランドセルに牛乳をこぼして汚しちゃった。ごめんなさい」と謝ってきた。わざとじゃないならと叱ったりはしなかった。晶が母親に叱られるかもしれないと怯えて泣いているわけではないと分かったから、頭を撫でて、臭いが残ったりシミになってしまったら仕方がないけれど新しいのを買おうねと宥めた。幸い、臭いもシミも残らなかったから今も同じランドセルを大切に使っている。

「ヘンだと思わなかった?」

「何が?」

 質問の意味がわからず問い返すと、妹はわざとらしく大きな溜め息をついた。

「晶の学校、ランドセルは机の横にかけとくじゃない?」

「そうね」

「なのにあの時汚れていたのはランドセルの中だった」

 妹の言葉に、給食の場面を想像してみる。

 長方形の机の横にランドセルをかけて、机には給食のトレーを置いて。

 さて、どうしたらランドセルの中に牛乳をこぼせるだろうか。

 机の上で牛乳を倒してランドセルの方に垂れたとしても、ランドセルは撥水加工が施されているからフタの上を流れていくはずである。

 ランドセルを開けて中を見ながら牛乳を飲んでうっかり落としたのだろうか……さすがにムリがあるか。そんな落ち着きのないことをする息子ではない。それに晶が大切にしているランドセルをそんなふうに扱うわけがない。

「まさか」

「私もあの時は深く考えなかったのだけれど、よく考えたら不自然じゃない」

「……そうね」

 嫌な感じがひやりと背中を伝っていったような気がした。寒気によく似ている。

 妹はなぜこんなことを話しているんだ。

「だからさ、あれ、誰かにわざとランドセルの中に牛乳を入れられたんだよ」

「……そう、ね」

 全く考えもしなかった。あの頃はクリスマス時期で仕事が特に忙しかった。晶も変わった様子なく学校に通っていたから、仕事のことしか頭になかった。

 あの日、晶が泣き腫らした顔をして、涙を流しながら謝ったのも、父親と一緒に選んだ大切にしているランドセルを汚してしまったからなのだと思った。

 もちろん、それもあったろう。

 けれど、それだけではなかったのか。

「晶は……いじめられてるの」

 自分でも声が震えているのがわかった。

 いじめ、という言葉を口にするのがこわかった。言葉にしてしまえば、物事に名前がつく。息子がいじめにあっているのが事実であっても、それがいじめであると名前をつけて断定してしまうのが、こわい。

 そんな、まさか。違っていてくれと、弱い心がそう願う。

 けれど問わずには居れない。

 妹は、姉の認めたくはないという気持ちを感じとったのだろう。きっぱり、頷いた。

「うん。あの後も時々体に痣つくって帰ってきてたから、終業式の前、三月くらいに訊いたんだよ。その痣、ほんとうに自分でぶつけてるのって」

 妹はそこまで言って、グラスに口をつけてビールをすこしだけ飲んだ。手の中でグラスを回す。

 薄い琥珀色がたゆたう。その中を光の粒が遊ぶ。夢のなかにいるようだ。

「そうしたら、アキ、笑って言ったのよ。新しい学年になったらやめてくれるかもしれないし、お母さんにはまだ内緒にして欲しいって。余計な心配はかけたくないからって」

 妹の瞳がうっすら潤んでいる。

「三年生になってもやめてくれなかったらどうするのって訊いたら、その時は自分でお母さんに言うからって、だから、わたしからお母さんには言わないって約束してって。アキがほんとうに平気そうに言うから、わたし、信じちゃったんだ。知っていたのに、アキが学校に行きたくなくなる……いや、行けなくなるまで放置していたんだ、わたしは」

 妹は己の判断の過ちと、手遅れになってしまったことを悔いている。

 けれど、母親である自分はそれすらできない。ただ呆然と、息子がいじめを受けていたという事実を、遠い地で起こった事件のニュースでも聞いて知るかのように認識することしかできない。

「……知らなかった。全く、気がつかなかった」

 毎朝学校へ行く息子に変わった様子はなかったと思う。夜は晶が就寝してから帰ってきて、妹から学校の連絡や、晶がどう過ごしていたか聞くことが多かった。

 確かに息子と過ごす時間は少ない。それでも、息子に何かあれば気づいてあげられるつもりでいた。まだ幼い息子が辛いことを完璧に隠せるわけはない。それなのに、わたしは幼い息子が隠し事をしていることに気がつかないくらいあの子を見ていなかったのか。

「かずねぇが忙しいのはわかるよ。けど、それは言い訳にはできないよね。かずねぇが悪いよ……姉さんがちゃんと気づくべきだった」

 妹は淡々と事実を突きつけてくる。口調は穏やかだ。だからこそ言葉が沁みる。

 こんなときだけ「姉さん」なんて呼ぶんだから。

「うん」


 一年半前の冬、晶の父親は死んだ。交通事故だった。その時、私は晶を一人で育てていこうと決めた。もともと家庭に入るより外で働いているほうが性にあっていたから、夫の分も私が働けばいいと思った。

 まだ小学一年生だった息子と、「二人で生きていこう」と約束した。

 一年前には勤めているレストランの店長に昇進した。勤務時間が増えたわけではなかったが、それでも店長としてやらなければいけないことは多く、出勤時間を早め、退社時間を遅くし、休日でも家で仕事をしていることが多くなった。それでも、充実していたし、給料も増えたから、息子のために頑張れた。

 それなのに、私は大切な息子を見ていなかったのか。

「かずねぇさ」

 妹はフォークでチーズとバジルとトマトを器用に刺しながら、何気なく呼んできた。視線はカプレーゼの皿に注がれたままだ。口調は姉妹でただ世間話をしている時のそれだ。

「うん?」

 缶のビールをグラスに注ぎながら応える。グラスを満たしたビールはいつもより泡立っていた。

「にいさんが亡くなった後、言ってたよね。憶えてるかな」

 希美はカプレーゼが刺さったままのフォークを白い皿のふちに置いた。視線を上げて、こちらを見据えて、すこし、笑った。

 私が、あの人が亡くなった後に言ったこと。

 妹が何を言おうとしているのか考えながら、ビールをすこし含む。

「アキと二人で生きていこうって約束したって」

 妹の言葉に「ああ」と、一つ頷く。いつもより低い声が漏れた。

 憶えている。忘れるわけがない。

「もちろん、憶えているわよ。私ががんばる理由で、誓いだもの。それが、なに?」

「アキとかずねぇはさ、二人とも、一人で生きてるって感じだよ」

 妹はふっと困ったような笑みを浮かべた。

「アキもかずねぇも意地っ張りというか、強がりというか。親子だから似ている」

 しょうがないよねと一人で納得しながら妹は、赤と緑と白を重ねて刺してあるフォークを取って、ぱくりと食べた。

「うーん、やっぱりかずねぇの料理は美味しい。イタリアンのレストランの店長なだけはあるね」

 妹はいつも一緒に飲んでいるときの様子に戻っていた。

 晶の話は終わりということか。

あとは一人で考えろということか。




 いじめられている息子。学校に行けない息子。

 熊になった息子。

 一人で生きている晶。

 一人で生きているわたし。

 どうしたら、二人で生きていけるのだろう。

 ねぇ、どうしたらいいかしら、あなた。






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