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それは、ある初夏の朝のことだった。
目を覚まし、シャワーを浴びて、朝食のパンを焼いて、ハムと目玉焼き、サラダを作って、自分にはコーヒーを、息子の晶には紅茶をいれるためにお湯を沸かして……と準備を整え終えたところで時計を見ると、いつも息子が起きてくる時間になっていた。大抵、自分で目覚ましをかけ、きっちりと着替えを済ませて起きてくる子だが、たまに寝坊することがある。
今日もそうなんだと思って、彼の部屋に行った。
中には入らず、ドアを軽く三度叩く。息子は寝起きの良い性質らしく、寝坊しているときでもこれで起きる。
「アキ、起きないと遅刻するよ」
「うん。いま行く」
はっきりした声ですぐに返事があったから、まだ寝ているわけではなく、少し遅くなって着替えでもしているのだろうと思った。
キッチンに戻り、オーブンからパンを取り出してテーブルに置く。
二つのカップにお湯を注いでいると、ドアを開閉する音が聞こえた。息子が起きてきたらしい。パンも焼きたて、紅茶もいれたて、タイミングばっちり、と鼻唄でも歌いたい気分でカップを持ってテーブルの方を振り返ると、テーブルを挟んだ先に、ちいさなこげ茶色の熊が立っていた。
鼻唄気分なんて一瞬で消え失せてしまう。というよりも、何も考えられなくなっていた。状況が理解できない。
両手にカップを持って振り返った状態で固まってしまう。
……くま?
それが本物の熊でないことくらいは理解できた。
背格好からして、というか、この家には自分と息子しかいない。茶色いちいさな熊は息子だ。
足から腕、首までをすっぽり包むつなぎのようなだるっとした体に、熊の頭のかぶりもの。ちょっと毛並みの良いその熊のきぐるみには見覚えがあった。息子が幼稚園のときのおゆうぎ会で、森のくまさん役だったときに作ってあげたものだ。懐かしい。
サイズを間違えてしまい、幼稚園の時にはだぼだぼですこしかっこ悪かったが、今はぴったり着こなしていた。息子の顔は見えないけれど。そんなどうでもいいことばかり考えてしまう。
彼が熊のきぐるみを着ていることについては何ら解決していない。
ゆっくりと深呼吸を一つする。落ち着け、自分。
両手のマグカップを自分と息子の席のところにそっと置く。
「懐かしいわね、その熊。どうしてそれを着ているの?」
何をしているの、と強い口調で言うのは簡単だ。早く着替えてきて朝ごはんを食べなさいと、叱るだけなら簡単なのだ。
けれど、それをしてはいけないことくらい、混乱していたって、わかる。
できるだけ明るく、軽い口調でたずねてみると、ちいさな熊はとことことテーブルを回り込んできて、隣に立った。そして、すっと一枚の紙を両手で差し出してきた。
ノートを切り取ったような薄い線の引いてある紙には、歳に似つかわしくなく整った息子の字が並んでいた。全てひらがなで書いてあるのは「熊」っぽさを出したかったからなのだろうか。
紙を受けとりながら、熊の眼を見てみる。熱も感情もないはずの瞳は、しかしこちらをじっと見返しているような気がした。
受けとった紙にすっと視線を戻す。朝日の差し込む明るい部屋の中で、白い紙は眩しい。
ぼくはくまなのでがっこうにはいきません いきたくありません
なぜ熊でなくてはいけないのかはわからないが、息子は学校に行きたくない。それだけは、わかった。熊になることが息子なりの学校へ行きたくないという強い意思表示なのだろう。
大人しくて、自分の意見をはっきりと他人に向けようとはあまりしない子だ。その息子がこうしてはっきりと言葉にするのだから、相当な理由があって学校には行きたくないのだろう。その明確な意思表示のために、熊になった。
手の中の紙から熊へ顔を向ける。熊はただじっとこちらを見上げてきていた。熊の中で息子がそうしているのだ。息子がわたしを仰ぎ見ている。きっと、わたしが何を言うか、怯えながら立っている。熊の瞳は黒く、一片の光も映りこんでいない。手芸屋で買ったただのぬいぐるみ用の眼なのに、それなのに、深い闇を抱いているような気がした。
「わかった。行きたくないなら無理して行かなくていい。学校にはてきとうに電話しておくわ」
テーブルの隅に紙を置いて、椅子に座る。
「ひとまず私が仕事に遅刻するから、朝食にしよう」
そう言うと、熊ものそのそと椅子を引いて座る。
「いただきます」
一人食事を始めるが、熊は食べようとしない。
顔をかすかに俯けているのだろう。熊はじっとテーブルの上の朝食を見つめているようだ。小さな可愛い腹の虫も聞こえる。
「熊さんはお腹が空いているようね」
熊の顔の向きと腹の虫が妙に合っていて思わずくすくす笑ってしまう。
息子は熊を脱いで私と顔を合わせるのが気まずくて脱げないのだろう。
てきぱきと朝食を済ませ、皿を流しに置く。
息子の分は小さな熊の前に手付かずで置いてある。
時計を見るともう出勤しないと間に合わない時間になってしまっていた。皿も洗って片付けたかったが仕方がない。
「一人でお留守番できる?」
行く準備をしながら問うと、熊は小さく頷いた。
「誰か来ても出なくていいから。あと朝食と昼食はちゃんと食べること。冷凍庫にも冷蔵庫にも色々入っているから。いい?」
また小さく頷く。
「希美に来るように頼んでおくから」
また小さく頷く。
「あと、お皿の片付けお願いしてもいい?」
また小さく頷いた。
「ごめんね。じゃあ、お留守番よろしくね。行ってきます」
そう言って玄関に向かうと、熊は後ろをとことこついてくる。
靴を履いて、鞄を肩にかけて、玄関を開けたとき、熊はやっと聞き取れる程の声で「いってらっしゃい」と言った。軽く笑ってみる。
「行ってきます」
昔書いて某サイトで公開していたもの(現在はなろうでのみ公開)。
お蔵入りさせておくのももったいないので公開してみました。
のんびり進めていけたらと思っております。
かわいい熊をお好きになってもらえたら嬉しいです。
よろしくお願いします。