同窓会①
小さく咳払いをすると、お局のノーラさんが、ギロリと目だけで睨んできた。笑顔は忘れずに。
対抗したわけではないが、私も笑顔を崩さずに、小さく会釈をした。それをどういう感情で受け止めたのかはわからないが、ノーラさんの厳しい視線は、子供たちの対応に戻った。
念のために、ノーラさんに背中を向けてから、小さく息をつく。
子供から顔を背けずに咳払いをすることは、我が保育園では許されない。大切なお子様を預かっている身で、職員が風邪をうつして帰らせるなど、言語道断、だそうだ。咳払い程度で風邪がうつるなら、全員にマスクでも配れ、と思うが、もちろん、口にはしない。それが大人というものだ。
唐突に眼前にゾウさんが現れた。驚く暇もなく、ゾウさんは乱暴にキスをして、ぽとりと力なく床に落ちた。
「せんせー、どんくせー」
ヤンチャ盛りのミルモ君、以下金魚のフン、ならぬ腰巾着2名が、ケタケタと可笑しそうに笑っている。
ゾウさんを全力で投げ返したい衝動に駆られながら、努めて平静にゾウさんを拾った。もちろん、ゾウさんは本物の象ではない。私が、休日返上で作った、知育玩具のぬいぐるみである。ただでさえ、裁縫は得意ではないというのに、中にワタを詰めろだの、子供に当たっても怪我がしないように細心の注意を払えだの、注文が多すぎて、熱が出そうになるほど丹精を込めて作ったものだ。にも関わらず、どんな扱いを受けたらこうなるのかわからないほど、哀れな姿になっている。ワタは飛び出て、糸はほつれ、自慢の長い鼻は半分にちょん切られている。
「だめよー、ミルモくん。ものを投げちゃー」
「いいんだよ、別に! そんなよーちなものは、投げて遊ぶぐらいが丁度いいんだよ!」
頬がひくついたのは、様々なことが重なっただけにすぎない。決して、このクソガキに殺意を覚えたからではない。ちなみに、様々なことの一つに、5歳の知育玩具にしては幼稚すぎる、というクレームをつけてきたモンスターペアレントがミルモ君の母親である、ということは含まれている。
「だめよー、ミルモくん。当てられた方が怪我したら、危ないでしょー」
「うっせえ! せんせーがどんくせーのが悪いんだろ!」
盛大な捨て台詞を吐くと、踵を返して走り出した。その途中で、積み木で遊んでいた子の力作を破壊していったのは、あまりにもやり過ぎだと思う。しかも、その子というのが、すぐに泣いてしまうクレアちゃんだったから、もう大変だ。一回、二回、と小さく嗚咽してから、盛大に泣き出した。
天を仰ぐ、というのはこの時のために作られた言葉ではないだろうか。本当に一瞬だけ昇天してから、腰を上げると、すでにノーラさんがクレアちゃんの元へ猛然と歩み寄っているところだった。クレアちゃんを宥めすかしている最中、私の方を一切見ないので、これは、ノーラさんに任せろ、というメッセージだと解釈し、クソガキを追うふりをしてその場から退散した。
5歳児というのは、運動能力が乳幼児とは桁違いに発達していて、案外、本気で追っても捕まらない。特に、ミルモくんは悪賢く、運動神経もいい。腰巾着ふたりはともかく、一度隠れられると、なかなか見つけられないことも多い。しかし、問題児クラスを請け負って、早半年。彼が逃げ込む場所は、すでにリサーチ済みだ。
「どこかなー、ミルモくんー?」
声を張りはするものの、優しさが感じられない声であってはいけない。何せ、我が園は子供たちを叱ることを禁じているのだ。それに準ずる行為もご法度だ。叱るという行為に、子供の主体性を損なう恐れがあるとかなんとか、御大層な建前を掲げてはいるものの、その実、親からのクレームと評判に戦々恐々としているだけだ。保育園もボランティアというわけではないから、イメージを大事にすることは間違ってはいないが、教育という本分からは、子供に見せられないほど逸脱している気がしてならない。
「ここかあっ!」
勢い余ったふりをして、掃除用具入れの扉を思い切り開ける。掃除用具が綺麗に詰め込まれているだけで、ミルモくんの姿はない。小さく舌打ちをして、扉を閉める。捜索を続けるために振り返ると、小さな女の子がウサギのぬいぐるみを抱きしめてこちらを凝視していた。全体で遊びの時間なので、他のクラスの子たちも自由に遊び回っている。見覚えはなく、3歳児ぐらいに見えるので、直接的に関わりがあるわけではないが、間が悪い。すぐに笑顔を作り、中腰になりつつ、女の子ににじり寄る。
「どうかしたのかなー? 迷子かなー? どこのクラスかなー?」
「こわい顔してた」
言うに事欠いてそんなことを宣うとは、職員に聞かれていたら、どうするつもりなのだ、この小娘は。 すぐに周辺の状況を把握する。この教室のクラスは外遊びでもしているのだろう、完全な空き教室だ。職員は愚か、子供たちの影もない。勢い余ったフリでクソガキを脅かしてやろう、と心に決めていたので教室に足を踏み入れた時点で確認済みだったが、この小娘のような例外が私を不安にさせていた。教室の隅々まで目を走らせてから、誰もいないことを改めて確認する。ほっと胸を撫で下ろし、女の子と視線を合わせるために腰を落とす。
「あのね。先生は、今、ある人を探しているの」
「ある人?」
「そう。その人は、ある女の子の大事なものを壊しちゃったの」
「女の子から?」
ぼうっとしながら話を聞いているが、おそらく半分も理解していないだろう。3歳児の理解力など、その程度のものだ。そして、少し遊べば忘れてしまう。
「そうなの。もう、それはそれはひどいやり方でね。ポカーン、ドカーンってね。しかも、女の子から。だから、先生は、その子を探してるってわけ!」
「だから、こわい顔してたの?」
そんなに怖かったか。確かに、あのクソガキは夢でボコボコにするほど憎たらしいが、そんなに怖い顔をしていただろうか。
「えーっと、ちょっと、頑張りすぎちゃったのかな。ごめんね、怖かったね」
頭を撫でようとすると、女の子は抱えていたウサギを庇うように体を捻って、背を半分だけ向けてきた。その行為は、感情表現に乏しい3歳児がやるものとして見知ったものだ。
「せんせーは、ドラゴンなの?」
「ドラゴン?」
思わず、聞き返してしまった。女の子は小さな敵意を孕んだ視線を送ってくる。可愛らしさで効力は半減してしまっているが、妙な気持ちになる。その単語のせいかもしれない。
「きのう、おかーさんに言われたの。そんなに言うこと聞かないと、ドラゴンに食べられちゃうよって。ドラゴンは、とってもこわいんだよって」
なるほど、悪い子はいねがー、というやつだ。この子の家庭では、ドラゴンはナマハゲ的な存在らしい。
胸がざわつくのをみないふりをして、大きく笑顔を作る。
「大丈夫。先生は、ドラゴンじゃ━━」
「あくのりゅうよ、かくごぉ!」
威勢のいい掛け声と共に、背中に大きな衝撃がぶつかった。不意打ちだったために、大きくバランスを崩して、前につんのめる形になる。危うく少女に体当たりをかましてしまいそうになるが、なんとか止まった。しかし、女の子に精神的ショックを与えてしまったようで、女の子は悲鳴をあげながら走り去ってしまった。
背中への攻撃が想像以上に痛かったことに、女の子に悲鳴をあげられたショックが相まって、表情が崩れたまま、後ろを振り返ってしまった。そこには、タオルを首に巻いてマントのようにはためかせ、おもちゃの剣を持ったクソガキが、得意げな顔をして立っていた。
「せんせー、じゃない…ドラゴンよ! かくごしろ! このパラディンのミルモ・インクレール様がたいじしてやる!」
鬼の形相でも作ってやろうか、とも思ったが、子供である、というその一点だけに免じて、怒ったライオンの形相ぐらいで勘弁してやることにした。
「ミルモくぅん。先生、何回も言ってるよね。危ないから、ものを投げたり振り回したり、飛んだり跳ねたり、走り回ったり積み木をぶっ壊したら、ダメよって」
ミルモくんの危機察知能力がようやく働き出したらしく、一歩後退りをした。あくまでこれは大人の圧であり、私の顔が怖いわけではない。そんなわけがない。
「う、うるさい! パラディンであるこのミルモ━━」
「パラディンでもなんでも、ダメだって、言ったよね?」
大人気ないとは分かっていても、大人の圧というものを見せつけなければ、この怒りは晴らせまい。否、この子のためになるまい。なんなら、大人を怒らせたらどうなるか、という学びを与えていると言ってもいい。保育園の教育方針がなんだ。モンスターペアレントがなんだ。この子の未来を本気で案じているというのなら、やってはいけないことを、やってはいけない、と徹底的に体と脳に刻み込んでやることは、決して間違いではないはずだ。正解でもないかもしれないが。
とにかく、5歳児に使って良い言葉なのかはわからないが、鼻っ柱をへし折ってやるわ。
「あ、その、ぼく━━」
力なく剣を下ろし、しょんぼりと肩を落としている姿は、先ほどの高慢ちきが嘘のようだ。しかし、言い訳はさせない。徹底的に、だ。
「言ったよね? 私が覚えているだけでも、三日前にも言ってるよ? 一週間前にも言ったなあ。連絡帳にも書いた気がするなあ。お母さんに、ミルモくんの暴れん坊将軍っぷりが目に余るから、ご家庭でもご指導をお願いいたします、的なこと書いた気がするなあ!」
家庭とのやりとりが記録されている連絡帳の言葉遣いすらもノーラさんにチェックされ、何度も書き直しを強いられたので、よく覚えている。推敲前は、「ご指導」を「ご注意」と書いていて、「あなた、本当に専門学校を出たのかしら」とキツめの嫌味を言われたことも、鮮明に記憶に残っている。
「お母さんに言われなかったのかなあ? 投げたら、危ないからねって。当たったら痛いからねって。あれ、もしかして、ミルモくんは、そんなの痛くないのかな? パラディンだから、大丈夫なのかな? 大丈夫だっていうなら、先生、本気で投げちゃおっかなあ!」
エプロンのポケットに入れたままだったゾウさんを取り出し、振り上げると、もはや金切り声の悲鳴をあげて、クソガキは敗走した。その無様な背中は、実に胸が空く思いで見送ることができた。半年の鬱憤を晴らし、手に握り締めたゾウさんの仇を取ったとも考えると、その喜びもひとしおだった。
しかし、それも束の間、頭が冷えると、自分のやったことに血の気が引く。不可抗力とはいえ、生徒を二人も泣かしたとなると、「ご指摘」では済まない可能性もある。減給、停職、もしかすると、免職などということも最悪なパターンであり得る。
立ったまま、額に手を当てて、大きく息を吐く。しばらく、そのままの姿勢でいた後、額から手を離す。それから、手に持っていたゾウさんを見ると、全てがどうでも良くなってきて、「まあ、いっか」と捨て鉢に強がってみた。
何気なく、窓に近付き、空を見上げる。澄み切った青空は、10年前までいた世界とは、なんら変わりない。今更、と自分でも思うが、少しホームシックな気分になった。ドラゴンだの、パラディンだのと、彼らを連想させるような言葉を立て続けに耳に入ったからかもしれない。そういえば、同窓会は来週だった気がする。10年ぶりだから、と駿太郎が全員に声をかけたらしい。
彼は、来るのだろうか。
ドラゴンスレイヤーと呼ばれる、彼は。
「ハルナ先生? お聞きしたいことがあるんだけど、ちょっといいかしら」
ドラゴンスレイヤー、私にとってのドラゴンが来たので、助けてください。