プロローグ
腕の中で、彼女の呼吸が弱くなっていく。彼女の命が、少しずつ削り取られているのがわかる。
「どうした…私が死ぬのが、怖いのか?」
彼女は、気丈に口元を歪ませた。忍び寄る死に恐れはない。恐れはないが、心残りはある。心残りが悔しさに、悔しさが口元に。それを悟られないように、口元を歪ませた。
雫が、ぽたりと彼女の頬に落ちた。続けていくつか落ちたが、彼女の玉のような肌がそれを滑らせ、すぐに流れ落ちていってしまう。涙の熱さを感じて欲しかった。そうすれば、逃げていく体温が戻るのではないか、そんなふうに思った。
彼女の笑みは滴と共にこぼれ落ち、もがくように体を小さく動かした。
「すまない。お前と、こんな風に別れるつもりはなかった」
彼女の目は、すでに虚空を見つめていた。
「誰も知らないところで、ひっそりと終わるつもりだったんだ」
それなのに、と苦しそうにつぶやくと、彼女の目に小さな水たまりができる。
「離れられなかった。永く生きすぎたらしい。私も、ヤキが回ったよ」
姉であり、母であり、愛する人だった。何もかもが違ったとしても、育んだ絆は掛け替えの無いもので、この先、二度と手にすることはない。
「すまない、本当に。お前に関わるべきではなかった。お前を愛するべきでは━━」
「違う。違うよ、エレノア」
絞り出した声に、彼女の唇は小さく震えた。
「そうだな。私は、お前を愛することができた」
彼女は、そう言って微笑んだ。そして、ほんの少しだけ間を置いてから。手を伸ばしてきた。咄嗟に握ろうとしたが、ゆらりとその手を逃れ、涙に濡れる頬に触れた。愛おしそうに小さく撫でてから、長く息を吐いた。
「なあ、キスをしてくれないか」
彼女の微笑みが、悪戯っぽく光る。
「私たちは、確かに愛し合っていたのに、終ぞキスすらしなかったじゃないか」
たったの6年。思い返してみると、あまりに短い。その思い出が引き連れてくるのは、後悔ばかりだ。どうして、キスのひとつもしてやれなかったのだろう。愛してる、と伝えたことさえ、数えるほどしかない。
「そんなに泣くな。笑ってくれ、とは言わないから、最後に、キスをしてくれよ」
彼女の目から溢れる涙を見て、最後の後悔だけは絶対にしたくなかった。
彼女に倣って頬に手を添える。親指で涙をゆっくり拭うと、嬉しそうに目を細めた。
「愛してるよ、エレノア」
「ああ、私もだよ。キョウスケ」
キスの角度は、どれぐらいが良かったのだろうか。愛してる、の声音はきちんと優しかっただろうか。彼女は、どれだけ幸せを感じてくれていただろうか。
今となっては、もう何ひとつわからない。
彼女はもういない。もういないのだ。どの世界に行っても、もう。
咆哮とも紛う慟哭が、響いた。