火中から伸びる手
「、あ。ヘ」
耳をそば立てれば、微かに声らしきものが聞こえた。私はこの顛末を見届ける必要があると自ら責任を課し、凝然と仁王立つ。一人の男を丸呑みした炎が、咀嚼に際して濛々と黒い煙を吐き出し始める。もはや人型の脂を孕んだように猛々しい火の規模となり、私はまた一歩後ろへ下がった。それを二度繰り返す。まんじりと眺めていれば、熱気に肌を焼かれてしまいそうな熱さだったのだ。しかし、おかしい。火はこれ以上、手足を伸ばす気配はなく、私が幾度も後方に下がらせられる道理がない。ならば、ジリジリと蛞蝓を想起させる遅々とした前進による接近が、私を押し出しているとしか言いようがない。人が火だるまになる時、まるで海中に沈められたかのように呼吸をする機会を失う。溺死と変わらぬ窒息死に導かれ、蝋のように垂れた皮膚の穴から、沸騰した体液が樹液さながらに漏れ出す。
火の中に身を置くスミスが既に、上記の状態になっていても不思議ではなかったが、頭の天辺から足の爪先まで浸かった溜飲を原動力とする強かさは、人間離れした行動の脊骨になり、私を建物の縁に追い詰める。
「信じられない……」
開いた口が塞がらないとはこのことを言うのか。私は熱さに追われて隣の建物の屋上に飛び移ろうとする。しかし、気圧されたと言って過言ではないその逃げ腰は、皮膚を火に舐め取られた黒々とした手が許さなかった。もはや寓話を介して語らねば、火を掻き分けて伸びてくる手の説明が付かない。見る影もない炭化した手に胸ぐらを掴まれた瞬間、幾何学に整然と編み込まれて縫製されたウール素材の服が、胸に天幕が張り出す歪な形へ変わる。背中がしなるほどの力加減は、どれだけ訝しく凝視しても全くもって理解できない。そして、瞳に情け容赦なく浴びせられる熱に耐えきれず、無防備にも目蓋を下ろしてしまう。ひいては、両腕を盾のように扱って顔を守り、習性と形容した火への恐怖に迎合した。
「!」
首に縄を掛けられたかのような荷重の変化は息苦しさを強制し、両足が地面からやおら離れていくのを把捉する、そのうち背中が大きく反り返り始め、極めて不自然な体勢に思わず息が漏れた。
「くっ」
車輪を漕ぐ足の動作に合わせて、胸ぐらに止まった虫を払うようにスミスの腕に向かって抜き手を切った。その感触は、砂を掻いた仄かな抵抗があったが、直ぐに瓦解する軽々しさも併せ持ち、私は両足を地面に下ろした。胸ぐらには、脱皮の如くスミスの手だけが残る珍妙な光景が鎮座し、自ら悪し様に招いた出来事ながら、粟立つ肌から多量の汗を催した。目眩を起こしたように足元が覚束ず、屋上の縁に追いやられていた私は、落下という体裁に甘んじた。めくるめく慌ただしさは思考回路を焼き切って、硬い石畳に阿るのも悪くない気分であった。




