熱源
「ハーキッシュ……」
家の壁に背中を預け、しずしずと石畳に座すハーキッシュは、力の源泉たる息遣いをまるで感じさせない。呼吸に伴う胸の膨らみ縮む運動を一切、捉えることができないのだ。ふらりと立ち寄った野次馬の怖いもの見たさとは一線を画す、仄暗い感情を抱えるイシュは、距離を保って取り囲む民衆から一歩抜け出し、ハーキッシュのもとへ近付く。胸に手を当てると、身じろぎしない理由の根幹に迫った。その瞬間、喉の奥から迫り上がる熱の塊が吐き気として現れ、地面に口づけをする勢いで顔を背けた。
「く、ッ」
息が詰まり、まともに呼吸をすることもままならず、背中を丸めてうずくまる。塗炭の悲しみに塗れた人間の背中を不用意に触れる朴念仁はここにはおらず、立ち話で持ちきりの忌まわしい事件の被害者とその親類と把捉され、好奇心は悲哀に流転し、それぞれの心の中で哀悼の意を表する。
「ちょっといいかな?」
ローブを羽織っていないイシュを、そこらの大衆と区別するには甚だ無理があり、魔術師から杓子定規な扱いを受ける。
「申し訳ないけど、その人は重要な事件の被害者なんだ。こっちで預からせてもらうよ」
しおらしい未亡人を慮るように脱力した手足の補助に魔術師が手を伸ばすが、イシュはそれを払い除け、睨め上げる。
「だ、大丈夫ですか?」
あまりに広大な都市の治安を守る為には魔術師が連携し、個々の持ち回りを持つことによって、辛うじて「安寧」らしきものを提供しているが、時代の折り目を迎えつつある急場に際して、人手不足の様相を呈していた。そうなると、他の魔術師と交流を持つなど以ての外で、人間関係は限りなく狭まり、ローブを羽織っていなければその他大勢と区別など付きようがなかった。イシュもそれを承知でローブを自宅に置いてきており、見知らぬ魔術師の振る舞いに対して嫌悪感を発露したところで、真意など伝わりようがない。
「自分で立てます」
ひたすら憮然に取り付く島もない「不機嫌」を体現する。殊更に飛び火を嫌った魔術師は、腫れ物に触れてしまったように両手を上げて、これ以上の干渉はしないと態度に示す。乱心気味だったイシュは、魔術師に声を掛けられたことにより平常心を取り戻し、事も無げに立ち上がるとそのまま雑踏に消えていく。
この街で起きている異変の渦中に魔術師が被害者として巻き込まれる。犯行声明を出すまでもなく効果的に影響を及ぼし、血眼になって犯人を捕捉するという欝勃たる意気込みが魔術師の間で交わされた。腐れ縁を自称するには充分な間柄にあったと自認するイシュは、自宅のベッドの上で横臥しながら、名状し難い靄がかった感情と格闘していた。いつもなら、自分の匙加減一つで解決する惰眠を貪った上での尻拭いに眠気との綱引きに興じていたが、如何ともし難い外的な要因が大きく関わった今宵は、海に浮かぶ海月のように漫然と夜を漂っている訳にはいかなかった。
「……」
根差した問題の深刻さは、取り除かない限り恒久的に尾を引き、よしんば死ぬ間際になっても思い起こすような後味の悪さとなるかもしれない。一向に降りてこない目蓋の代わりに、イシュはベッドから離れ、隅に追いやっていた紙の束を埃が被った机の上に置いた。そして、引き出しの中からペンとインクの入ったガラス瓶を用意する。座学に向かうようにイシュは手を動かし始めれば、ハーキッシュと交わした会話を思い出す。
「茶色い髪を肩に跳ねさせる、丸顔が愛らしい活発な女性から見初められてねぇ」
道すがら耳に入れた猥雑な色気話の教訓と総合し、点と点が繋がれば、イシュの目に強い決意が宿る。
(絶対に捕まえてやる)




