二振り
飼い主の手を噛むかのように、身に纏った風は衣服や髪を振り乱し、目を開ける動作すらままならない。それでも、並々ならぬ意気込みがそこには確かにあって、大口を広げて近付いてくる炎を迎え入れる体勢を作っていた。距離が近付くにつれて、些か手心を知らない炎の明かりは、ビーマンの全身を白く染め上げる。それを熱気と呼ぶには生ぬるい。夜空を駆ける星の瞬きにも比肩する熱が、全身に浴びせられながらも、ビーマンはその場を離れようとしない。押し引きによって生じる軋轢を看過せず、堅固な心持ちが背筋を真っ直ぐに伸ばし、悔恨に後ろ髪を引かれるような女々しさを微塵も感じさせなかった。
特筆すべき気風を纏ったビーマンは、水面に顔を落とすかのように息を止める。これから先に起きるであろう、不測の事態への心構えと、死に物狂いで無茶を働く為の心拍数の高まりを空々しい“集中”に変えて、炎を受け入れた。豪雨を連想させる支配的な音の群生に、今世に於いて終ぞ聞くことはないと悟った生物の生存本能が、目の色を変えるようにして肌を粟立たせる。五感から得る情報を正確に把握し、“恐怖”という感情をひたすら扇情する自らの行いを、ビーマンは自虐的に笑った。とめどなく流れ出す汗は、多分に悪寒を含んでいて、寒気すら感じていた。身体を炭に変えようと気炎を吐く中で、暴風雨さながらの壁がなんとか身を守っているものの、甚大な影響下にあることは喉の渇きから察する。
玉のような息苦しさが胸の奥からせり上がり、身動きが取れない圧迫感も相まって、ビーマンはキョロキョロと忙しなく目玉を動かし始める。
(落ち着け、落ち着け)
目論見は上手くいっていると、自分に言い聞かせるビーマンは、目を瞑り視覚を絶った。全身に吹き付ける風の熱さは、刻々と上がってきており、このまま放っておけば蒸し焼きにされて当然の温度まで上がっていく気配がある。ただそれも、想定していた通りの物事の推移であることに変わりなく、あたかも自分を台風の目のように扱い、ナイフが特性の一つである“風”の操作に傾倒する。今までとは比べ物にならないほどの強風が生み出され、炎はまるで卵を丸呑みにした蛇のように、やおら膨れ上がる。一人の人間を手籠にするしても、些か似つかわしくない大きさへ変貌し、それは次第に毛玉のようにほつれを生み出す。
(頼む……!)
右手に持ったナイフにそう嘆願すると、最後の一押だと言わんばかりに“風”は四方八方に拡散し、炎を散り散りに消し飛ばした。
「やった、やった!」
深海から浮上したかのような、開放感にビーマンは大きく息を吸い込んだ。
「それを待ってたんだよ」
魔術を懐刀のように扱う魔術師は先ずいない。秩序を大義名分にして思うがままに振る舞いを決定し、如何なる事象に対しても腕を組んでふんぞり返る。笠に着たその姿勢は、自衛の為の装備などに注意は向かず、着のみ着のまま悪事の前に飛び出すことに一切、衒いはない。だが、背信者の集団に属する一人に遅れを取ったスミスは、自衛とは名ばかりの好戦的な刃物を懐に忍ばせていた。




