瀬戸際
足掻けば足掻くほど、泥濘にハマるような恐ろしさを覚え、このまま何もできずに地面へ叩きつけられる悍ましい瞬間が、刹那の如く頭に過った。地球の重力に則った落下は、己が身に翼を持たぬ人間らしい姿であり、泡を食って驚くほどのことではない。当然の摂理としてこのことを受け入れ、魚の開きよろしく、大きく広げた手足を畳んで、俺は臍を中心に丸々と形を作った。それは期せずして、胎内回帰の格好となり、鼓膜まで届いていた心臓の忙しない動きが、体内にありながら遠ざっていくのを感じた。頭も澄んでいくような兆しを把握すると、それは次第に顔、首と下って、血液さながらに全身に回った。
これは、命を諦めることにより得る諦観とは甚だ違う。ただし、処世術と形容するほどの大仰なことでもない。あくまでも魔術を扱う為に、強張った全身に安らぎを与えようとしたのだ。すると、吊り下げられた糸がピンと張ったかのように、身体は宙吊りになって固まった。徐に目を開けると、間近に迫った鋭利な先端が視力を奪う寸前にあり、汗がとめどなく溢れ出した。あと少しでも魔術が遅れていれば、俺はきっと絶命していただろう。それを既の所で避けた生物としての本能はなかなかに正確である。
「っぶねぇ……」
屋根を尖らせる石工職人の審美眼によって、あられもないオブジェのように自分の身体を装飾するところだった。夕立ちも顔を真っ青にする人間の飛来は、バエルの匙加減一つで行われたことであり、苦情を言うなら奴に言って欲しい。俺はしずしずと体制を立て直し、とりわけ大きい建物である眼下の屋根にて、吐き出す汗の尻拭いに努める。すると、
「ゴーン、ゴーン」
朝、夕と時刻の進みを、性差や年齢、貧富の差異まで、遍く立場の違いを区別することなく知らせる鐘の音が、足元の屋根越しに聞こえて来る。両手を使って耳を塞ぐほどの距離感にあり、遠大な街を見越した振動によって、土から顔を出す昆虫のように下っ腹が蠢く。恐らく、俺のような傾奇者を想定していないはずだ。周囲を見渡せば、この建物は街の中で突出して背が高く、降り立つには些か適していない場所である。それでも、アイの行方を探る上で言い渡された、「時計台」という数少ない指針と、足場にしているこの屋根から察するに、作為的なバエルの裁量を疑わざるを得ない。
「おい、お前。そこで何をやっている」
島国出身の俺でさえ、背後から身分について問われれば、両手を上げて無力であることを公にする。
「いやぁ、興味本位で登ってしまって」
薄弱な理由を口にしつつ、俺はゆっくりと後ろを振り返った。




