見失う
足元をふらつかせながら立ち上がろうすると、稚児を助けるように男は補助を申し出た。私はそのお節介を拒否するより、肩を借りてしまう方が礼節は欠かないと判断し、うだつの上がらない身持ちに甘んじた。
「お互い気をつけましょうね」
男は、私に過失があることを承知しながら、譲歩の姿勢を示す思慮深さに感謝は尽きない。ひたすら稲穂の如く頭を下げることでしか、男に対して誠実でいる方法が浮かばなかった。
「申し訳ないです」
そして、後腐れなく颯爽と立ち去っていく男の背中を慎ましく見送った。私は先刻までの危機迫る焦燥から解放され、家路に向かう人波へ紛れる。日の出から日の入りまで、せっせと働いた人達が窓辺に頬杖をついて佇むような気風が表通りに流れており、回帰すべき日常を取り戻したことへの安堵感が全身に回った。気分は張り詰めた糸が緩むように弛み、手持ち無沙汰を隠すように服に備え付けられた収納ポケットに手を伸ばす。臓器のように蠕動するポケットは、時間が経つにつれて、「まさぐる」手の形を成していく。霜焼けを誤魔化すように暴れる手のもどかしさを連想するよりも、おっかなびっくりに一瞥を貰うだけの奇怪さを帯びる。それでも私は手を止めなかった。何故なら、そこにあるはずの物がなかったからである。
「……ない、ない」
バエル様から命の次に大切に扱えと言い渡され、いつ何時も肌身離さずにいることを反芻してきたはずの“魔石”がない。ベレトならこれを“首輪”と呼んで疎んずるだろうが、私とバエル様を繋ぐ要衝であった。そして、ベレトが虎視眈々と事に備える横で、私は逐一状況をバエル様に伝えており、不足の事態を排斥する重要な役割がある。それをあろうことか、紛失するなど顔向けもできない。スミスと演じた大立ち回りの間に魔石を落としてしまったと考えるのが妥当である。私は居ても立っても居られず、バケツをひっくり返した夕立ちに追われるようにして、踵を返す。誰よりも耳目を嫌い、今この場に馴染むことに喜びを感じてすらいた私が、人流に逆らって走り出す。倒錯的な行動の背中を押すのは、バエル様から爪弾きにされ、拠り所を再び失う恐怖であった。
「おい! あぶねぇーだろ」
土竜のように顔を出す怒声を躱しながら、件の場所まで戻る。今にも溶け落ちそうな赤い雲のそばにいた月が、煌々と光り出す兆候にあり、闇が至る所に我が物で蔓延る恐れから、私は拙速に詠唱を唱え、忌憚ない命のやりとりを行った建物の屋上に向かって跳躍した。忽然と姿を消したかのようにスミスの姿はなく、炎が這いつくばった黒い跡だけがぽつねんと残っている。影を掴んで離さない太陽の悪あがきを頼りに、私は目を皿にしながら落としたはずの魔石を見つけようとする。舌で舐めるような距離まで接近させた顔は、見る間に青ざめていき、終ぞ魔石の影すら掴めなかった。
いくら回顧しても、魔石を手放す瞬間は脳内のどこに目を配っても発見できず、偶発的にポケットから跳梁する以外に失うきっかけが思い当たらない。つまり、私が曲がり角をなんの躊躇いもなく突っ込んだ為に起きた男はとの接触に於いて、魔石が飛び出した恐れがある。
「……」
しかしそれは、楽天的な発想だった。硬い石畳の上を転がる耳障りな音が鳴れば、直ぐにポケットへ戻す動作は想像に難くない。反芻すればするほど、記憶は疑わしく、色褪せていく。魔石の行方は暗中に消え、私は手掛かり一つさえ見つけられなかった。




