「なろう叩き」及び「なろう叩き叩き」に対する所感
2021年秋。
インターネットの片隅で、少しばかり話題になっている話があります。
それは「小説投稿サイトに投稿されたものを原作とする作品、もしくは小説投稿サイトに投稿されている作品そのものを酷評して動画サイトへアップロードする動きが流行っている」というもの。
いわゆる、なろう叩きというものです。
事の発端といたしましては、小説家になろうに投稿されている作品についてとある動画投稿者がレビュー動画を作成しそれを投稿したことにより、紆余曲折の末に当該作品の作者が筆を折り作品を削除してしまった、ということに起因しています。
そこから某動画投稿者の当該動画、及びTwitterが大炎上とは行かずともプチ炎上、そしてあれよあれよと多数のフォロワーを抱えるインフルエンサーの方々によって拡散された結果、今では「なろう原作作品に対するレビュー」というとても主語の大きなものへと進化してしまった……というわけです。
私自身普段からネットをあまり活用しないもので、正直この騒動もほとんど知らなかったのですが、なんとなく情報を追いかけているうちに自分の中で形にしておきたい概念が生まれてしまったため、今回筆を執ったという経緯になります。
そのため、本文章には多数の主観と、一部事実と異なる部分があるかもしれません。あらかじめご了承の上、誤りがあった際にはご指摘のほどよろしくお願いいたします。
そして、大前提といたしまして。
本文では、今回インターネットで巻き起こった騒動全体に対する所感を述べさせていただきます。当該作者の作品や当該動画のみに関する話だけではない、ということをご理解いただければと思います。
加えて私個人といたしましては、たとえどんな形であれ「作品の内容に対する正当なレビュー」はあって然るべきだと思っており、推奨している立場です。
併せてご承知おきくだされば幸いです。
今回の騒動で話題になっている点を挙げるとすれば、大きく分けて二つ。
「商業展開されていない作品に対するレビューの是非」そして「作品内容以外の点に対する過激な発言」についてです。
まず「商業展開されていない作品に対するレビューの是非」について。
これについて言及する前に、ひとまず「商業展開されている作品に対するレビュー」についての考えを述べさせていただきたく思います。
商業展開されているものとそうでないものでは大きな違いがあります。単純に、金銭のやり取りが発生するかどうかというところですね。
お金というのは基本的には労働に対する対価であり、貴重なものであるため、その向き合い方には慎重にならざるを得ません。そのため、何か商品を購入しようとする際には、使用者の意見を参考にするというのが重要な手段となります。
家電を例として挙げてみましょう。
美味しいお米を食べたかったので、炊飯器を買った人がいたとします。
この時、つやつやのお米が炊けて満足したのであれば、言い換えれば、払った金銭に見合う、もしくはそれ以上のものが手に入ったのであれば、当然高い評価を与えられるでしょう。
しかしながら、ボソボソとした美味しくないお米しか炊けなかった、もしくはお米を炊きたかったのに何故かパンが出来たなどということがあれば、それには低い評価がつけられるものだと思います。払った金銭に見合うだけの働きをしなかったわけですから。
そして次の購入者は、レビューをした人の意見を参考に、購入を検討する。構造としてはとても単純ですね。
そしてそれは、文芸作品に対しても当てはまります。
購入を検討している人の一助となるために「一使用者としての評価を述べる」という構図があれば、賞賛も批判も正当なものである……というのが私の考え方です。
実際インターネットで散見される意見の中にも、要約すれば「本屋に並んでいるような作品はともかく、個人の趣味の範囲である作品にまで批評をするのはやり過ぎだ」という趣旨のものがありました。
商業展開されている作品ならば、もちろん正当な手段でそれを手にして使用したという前提の上ではありますが、批評されるのは当然だという意見を持つ人は少なくないと思っています。
では続いて、問題の「商業展開されていない作品に対するレビューの是非」について。
これに関しては、私の口からは完全に非であるとは言えません。
小説家になろうの利用規約には、「本サービスを利用して投稿されたテキスト等の情報の権利(著作権および著作者人格権等の周辺権利)は、創作したユーザに帰属します」(小説家になろう 利用規約第18条1項)とあります。
そして法律の上では、「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」(著作権法第32条)とあります。
引用は法の上で認められた行為であり、権利者に無断で行われることが許されているため、その利用方法が違法でない限りにおいては糾弾することができません。もちろん作者に一言許可を取るなりするのがベターではあるのでしょうが、特別な場合を除き法に反しているとは言えないわけですね。
それに、無料だからレビューしてはいけない、などということはありません。
例えば無料で使える公共施設である公園などに、「遊具が多くて素晴らしい」や「ゴミが落ちていて環境が悪い」などというのも、それもまた一種のレビューと言えるでしょう。
人の目に付く場所に出すというのは、人から批評される覚悟がなければ容易に行ってはいけないという意見にも、理はあるかと思えてしまうのです。
しかしながら、やはりそれでも、批評をするとしても他の場所で拡散するというのではなく、サイト内で納めるのが双方にとって良いのではないかと思います。
これに関しては理屈があるわけではなく、ただの私の感情なのですけれどもね。
ただ、この点に関しては、小説家になろうが進化した弊害が関係しているのでは、と推察しています。
小説家になろうには「イチオシレビュー」という、他の読者に向けての作品の推薦文や紹介文を投稿するスペースがあります。イチオシと名に付いているとおり、読んで字のごとくおすすめ作品を紹介する機能ですね。
しかしながら、レビューというものは全てが全て良いものではなく、時には苦言を呈されることもあります。
が、現在の小説家になろうには、「この作品はお勧めできない」ということを明記する場所がありません。明記したとしても、作者の権限によって削除することが可能となっています。
そのため、作品をつまらなかったと言いたい読者が、他サイトであるブログや動画投稿サイトなどで批判を述べるという流れができてしまったのではないかと考えられます。
また、小説家になろうが、単なる趣味で小説を投稿する場ではなくなってきているということも一つの原因ではないかと思われます。
小説家になろうにおいて非常に優れた作品というのは、出版社の目にとまれば、その社から商業展開されるという流れがあります。出版社が拾い上げる以外にも、優れた作品を募るためのコンテストも行われていることは皆さんもご存じかと思います。いわゆる書籍化というものですね。
そして、小説家になろうから商業展開された小説が、コミカライズを経て、アニメや映画、ドラマになったといった実績もあります。創作者としては夢のような話ですよね。
問題はこれです。
小説家になろうに投稿された作品は、それぞれが書籍となる可能性がある。すなわち、小説家になろうそのものが、大量の「金のなる木」を抱えたビジネスであると考えられているのではないか、ということです。
それによって、小説家になろうが「いろんなひとが文を持ち寄り、読者はそれが無料で読めるサービス」ではなく、「アマチュアが書籍を出すために優劣を競う場所」と認識されているのだとしたら。善意か悪意かはさておき、辛口評価をする自称レビュアーが多く現れるのも頷くことができます。
彼らは、プロの卵の文章を批評している訳なのですから。
次に「作品内容以外の点に対する過激な発言」について。
こちらも前提として。
人間の感性というものは、それぞれ各個人で異なっているものです。似通っている人ならいるかもしれませんが、大多数は自分とは違う感性を持っているということに関しては、ご理解頂けると思います。
そのため、文芸作品に対する評価というものも十人十色であるわけです。
とある人が面白いと思っても、別の人は同じものに対して面白くないと感じるかもしれない。
その賞賛と批判の差は、いわゆる意見や感想という部分に当たるため、たとえその考えには迎合できないとしても、それを根本から否定するということはあってはならないのです。
従って、それが「作品内容に対するもの」であるならば、その批評の全ては正当なものであると私は主張したいのです。
では逆に。
「作品内容以外に対しての評価」とは何か?
これが、いわゆる人格批判といわれているものです。
例えば「主人公がカッコイイ」「先の読めない展開が面白い」や、「主人公に魅力が感じられない」「斬新さがなくて面白いとは思えなかった」といったものは、作品内容に関する批評に当たると考えられるでしょう。
しかしながら、「こんな主人公しか書けない作者は、〇〇に決まっている!」と、作品以外の、特に個人に一方的なレッテルを貼るような評価を下している人も世の中にはいます。
私には「そんなことは考えてはいけない」というように、思想を弾圧することは出来ません。人間なのですから、負の感情の一つや二つ抱くのは仕方の無いことでしょう。
しかしながら、どうしてわざわざそれを明文化してしまうのでしょうか。これでは中傷のためと言われても文句は言えないと思います。
単にレビューとしても、「この作品は面白いですか?」と聞いているのに「この作品の作者の人間性が理解できません」だなんて返されたら、それはもう会話の放棄ではないかと考えてしまうわけです。
作品内容からの邪推にとどまらない場合もありますね。
作者の年齢、性別、職業、学歴、出身地、家庭環境などが判明している場合、そういったパーソナルな部分にまで踏み込んで攻撃的な発言をする人もいるものです。
あえて例を挙げるとするならば「この作者はいい年したおじさんなのにこんな話しか書けないのか」といったように。ここまでいくと、作品への感想ではなく、ただ個人への攻撃だと感じてしまうのも無理はありません。
そんな酷いことを言う人がいるわけがないだろう、と思われる方もいらっしゃると思いますが、残念なことにこの手の輩は一定数存在します。
多少過激な方が注目を集めるということに気付き、それに飲み込まれてしまえば、そこから抜け出すことは難しくなります。そのため、褒めるよりも叩き、感傷的かつ感情的に不満を口にする。金銭が絡むとこの図式はより強固なものになるでしょう。
そういった理不尽かつ攻撃的なレビューばかりが目立ちますが、それでも世の中には正当な評価を理路整然と下す善良なレビュアーもいます。そういった方々においては、ぜひただ声が大きいだけの人に負けずに頑張ってほしいと切に願うばかりであります。
少しばかり脱線しましたが、総じて私は「作品以外の点に対する批評」は断じて非であると考えています。
しかしながら、やはり「作品内容に関する批評」は積極的に行われるべきであるとも考えています。
確かにレビューに対して作者がどう反応するかは、レビュアーに危害を及ぼさない限りでは勝手です。しかし、正当なレビューは何者からも侵害されるということは、あってはならないのです。
この辺りは藤子・F・不二雄先生の作品『エスパー魔美』より『くたばれ評論家』というエピソードにより詳しく描かれています。気になる方はどうぞ調べてみてください。
ですが、本質的にレビューというものは、作者ではなく消費者――この場合は読者――のためにあるべきものであると思っています。
客観的に判断された物品に対する評価を、また別の消費者が参考にする。レビューというのは本来それだけのものであり、こんな仰々しいことを語るようなものではないはずです。
読む側も、書く側も。
受け取る側も、伝える側も。
容量用法を守って、楽しいレビュー生活を、読者も作者も一緒となって続けていけたらなにより。
そう、切に願っております。
……と、別にこれだけのことなら、わざわざ文にすることはありません。
本題はここからです。
今回の騒動を観測するにあたって、当該作品は最終話まで読み、当該動画も視聴済みです。
作者の方も認めていたように、動画内容は別段おかしなものではありませんでした。
しかしながら、そこに作者へのリスペクトに欠けたコメント(動画投稿者のものではない)があり、作者がこれに心を痛めてしまった。言ってしまえば始まりはこれだけなのです。
……動画投稿者のTwitterにはいくらか過激な発言が見られますが、ひとまずそれは横に置いておきまして。
今回の騒動は、どちらかといえば、作者と動画投稿者の軋轢というよりは、場外乱闘が作者と動画投稿者の関わりのない場所で異様に大きくなっていただけ、という様に感じました。
そしてこの文を書くにあたって、作者の側に立って擁護する人の意見だけではなく、動画投稿者を擁護する人の意見も確認しています。
双方共にある程度の正当性があり、納得のできるものも多くありました。それ故に意見が食い違ったまま平行線の議論が続き、互いに悪印象を持っている、という様に見受けられたのです。
しかしながら、気になったことが。
動画投稿者に好意的な人たちが、「動画内容は間違っていないから動画をとりさげる必要は無い」と言っているのは何となくわかると思います。
ですが作者に好意的な人で、動画投稿者を非難する声を上げている人の意見の多くは、「この作品は面白いです」ではなく「酷評をやめろ」「作者が断筆したことをどう思う?」という、作品や動画の内容に触れない部分が多かったのです。
それもほとんどが、身を乗り出したかのように、攻撃的でした。
なろう叩きをしている人なら、叩いてもいいのか?
作家を叩くなと言いながら、同じ口でレビュアーを叩くことは許されるのか?
「なろう作品に文句をつけるのは作家になれなかった人」「低評価は嫉妬の証」「作者の筆を折らせたいだけ」などと、事実に基づかない憶測だけでレビュアーの人格を否定するのか?
評論の内容を見ずに、作品を貶しているからというだけの理由でレビューを悪と決めつけていいのか?
非営利目的の作品に文句を言うなと言いながら、(少なくとも現時点では)非営利目的の動画には文句を言うのか?
「レビュアーは安全圏から見ているだけだから簡単に批判ができる」と、現在進行形で非難を受けているレビュアーに対して安全圏から好き放題言うのは善いことなのか?
批判するなと耳当たりの良いことを言うだけの人は、本当に味方なのか。
作品のどこがダメだったかを論理的に説明している辛口レビュアーは、本当に敵なのか。
より作品に対して真摯に向き合っていたのは、どちらなのか?
私には、わかりませんでした。
最後に。
この騒動で、傷ついた人がいること。
失われたものがあるということ。
そして、人を傷つけようとしていた人がいたということ。
一人の読者として。
そして一人の作者を目指す人間として。
ただそれが、哀しいです。