断崖への旅路2(断崖前)
暗い影に包まれた峡谷
峡谷は音もなく静寂に包まれる
静寂の中を進む、川の上の一団
■システィーナの視点
そこはかとなく沸き起こるのは畏れ。
悠久なる大自然の造形に対する畏敬の念。
両側から挟み込まれるような、磨り潰されるような錯覚さえ覚える圧倒的な岩壁が、延々と続いているの。
昼でも陽の光が届かず、広がる闇は独特の雰囲気を持っている。薄い闇の幕によって姿が隠されるからこそ、見えない部分を必要以上に大きく想像してしまい、大自然への畏れを膨らませてしまうのかしら……
足元はゆらゆら。
一角馬が水面を踏むたびに、柔らかい水の弾力が跳ね返ってくる。闇の色を落とす水面はこのまま地の底深くまで続いているような気がして、何だか落ちそうで怖い……
「……」
と前を進む大きな背中のコークリットさんが宙を見上げる。ああ、穏やかな霊力だ。どこにあっても優しくて大きな霊力。他者への感謝の念が、報恩の念が伝わってくるの。彼の特徴。
そして何より、大きな背中だ。逆三角形の大きな背中。その背中から腰へとすぼまって、どっしりとしたお尻に繋がる。格好いい後ろ姿。ああ重そうだなあ。
この畏怖を覚える峡谷の中にあって、彼の大きな存在が畏れを和らげてくれる。
本当に大きくて立派な体だなあ、うふふ。
「だいぶ峡谷が高くなってきましたね」
うん、本当に高い。見上げれば遥か高い宙の薄闇のなかに蛇行する光の道があって。
私が答えたかったのに、彼の隣を歩む嫌味男が偉そうにうなずく。
「ウム、そうだな」
「言い方っ! まったく、何でそんなに尊大なのよ」
「フン、ぶつぶつ言うな。あと後ろから話に入って来るな」
「なんですってええ?」
私たちのやり取りに「くっ」とわずかに吹き出すコークリットさん。
もう、見世物じゃないですからね? と思ってたら、彼は驚くべきことを!
「本当に仲がいい。息がピッタリ合ってますよね」
「「合ってない!」」
ハモったものだから、再び彼は「くっ」と吹き出す。もう、もう! もう~~!
「でしししっ、膨らんだ~、膨らんだ~」
隣を歩むテル君が私の頬をつつく。
こらぁっ! アルの真似か!? と「アル姉ちゃんから頼まれたんだ~! でしししっ!」って、アルは何てこと頼んだの!? もう~~~っ!
とコークリットさんが大きな体をひねって、私の方に人差し指を伸ばす。
「「!?」」
「私にもつつかせて下さい!」
はっ!? はあっ!?
「ナナッ、ダ、ダメだ!」 と嫌味男!
「◯×◎~~~~っ!?」 私は両手を顔の前でクロスさせブンブン振る!
「でししっ、いいじゃん! 減るもんじゃなし!」
「ダ、ダメだ!」 嫌味男が慌てる! 何で!?
私はというと、彼に頬をつつかれる様子を想像して、胸がドドドッと脈打った。はわぁ~~、顔が熱い!
そんな私と嫌味男を交互に見て、口元を押さえて「くっ」と吹き出した!
「ヌゥ! イタズラが過ぎるぞ、神殿騎士殿!」
「はい! すいません! 面白くて!」
お、おも!? か、からかわれた!? 私も嫌味男も!? 何で嫌味男がダメって言ったか分からないけど!
「もう! もう~~っ!」
からかいに腹が立った私は、水精霊に命じて彼の後頭部に水の玉を何発も当てる! バシッバシッ!
「痛っ! 痛っ!」
「でししし!」
「ぶっはっは!」
「~~~~っ!!」
腹立ちが治まらない私は、男性陣全員に水の玉をぶつける!
「「痛たたたっ!」」
「「わはははっ!」」
皆の意識を別のものに向けさせないと! 頬が赤くって!
だって心のどこかで頬をつついて欲しい自分がいるんだもの! ど、どうしよう。想像しただけで胸がドドドッて……お、落ち着かないと! 落ち着かないと!
「ローレンさんはつつかないので?」
「「つつくか!」」
くぅっ、またハモった!
彼はここ三日間で随分フレンドリーで気さくになったような気がするの。前はもっと「聖なる騎士」って感じで固い印象だったんだけれど。喜怒哀楽の喜怒の精霊が解放できたからかしら? それともまだ見ぬ怪異への恐れや自然への畏れで緊張状態が続く私たちを気遣って、彼なりに緊張を解かそうとしてくれているのかしら? 隊を分けてからというもの、少人数ゆえの淋しさや孤立感はグッと増したように感じるし……
「ふふ、話しを戻すと峡谷の高さは五十メートルくらいでしょうか?」
「フム、そのくらいはあろうな」
はあ、話しが変わって良かった。
そうなの。
もう日の光も届かないくらいで、とても薄暗くて。光の精霊で私たちの前後を輝かせているの。光につられてか、たまに巨大魚が水面に上がってくるけれど、その都度コークリットさんやハルさんが倒したり追い払ったりして。
後続隊もこの川の上を歩いてくるのよね。大丈夫かしら?
そういえば弟たちはどうしたかしら? 分かれてから三日経つけれど、うまく獣人の協力を得られているといいんだけれど。
「リートの大断崖はこの十倍以上はあるんですよね」
「そうだ。場所によってな。おおむね七百~千メートルあるようだ」
「果たして登れるんだろうか……」
「フム、百年以上前に獣人や妖精が登ったことがあるから、登れる場所はあるだろうが……この川の先がどうなってるかは分からんな」
「なるほど。最悪、北東方向に向かえば、登る場所はあるようなので」
「北東?」
北東方向?
何のことだろう?
「その情報はもしや……」
「はい。三日前、尋問したオークらの情報です」
「ホホウ、やはりあのオークらのか」
なるほど、彼は何匹か生き残ったオークたちを尋問していたのよね。
「結論からいうと、下っ端のオークたちは何も知らなかったんですが、いくつか興味深い情報がありました」
「ホウ、いくつかか。どのようなものだ?」
「言い方っ!」
「はい。倒した族長と副族長、逃げた副族長は、半年ほど前に外部からやってきたようです」
「ホウ、外部からやってきた、か」
「はい。リートの大断崖の上からやってきたようです」
「なるほどな」
リートの大断崖の上!
族長の体の大きさ、力の強さ、歴戦の傷跡は桁違いで、相当な修羅場を超えてきた者だったみたい。大断崖の上は下の世界よりも魔獣が多くて狂暴だから、そこで生き抜いてきた猛者の力に、下っ端のオークたちはただただ従ってきたのだそう。
「フム。従っていただけだとすると、獣人を襲う理由も、どこへ連れていくのかも知らないということか?」
「ええ、残念ながら。ただ、捕らえた獣人は北東方向へ連れて行き、途中で別のオークに引き渡すということをやっていたようです」
「北東方向、それでか。北東方向に大断崖を登れる箇所があるかもと……しかし我々が向かっている方向とは違うな」
「はい」
そうなの。
私たちは今、川の流れに沿って北北西へ向かって進んでいる。この違いは何かしら? どこかでこの方向が交わるのかしら……?
「他にも気になる点があります。族長の鼻奥にあった石。なぜ今回は鼻奥なのか。人間の世界では腹の中だというのに」
「フム。それは川に流れた青砂を魚貝類が食べ、最終的に人間も食べたから、ということのはずだ」
「ええ。すなわちオークの族長は別の方法で鼻奥に青砂が集まったということになりますね。例えば呼吸によって」
「ウム、そう考えるのが妥当だろうな」
「つまり、この青砂はもともと呼吸とともに取り込まれるようなものだったのかもしれません」
「「なるほど」」
私も納得したので声が出てしまった。
そんな私を、嫌味男は眉間にしわを寄せて見る。何よ、いいじゃない! 私は思ったことを言った。
「粉塵とかですよね?」
「はい。この砂の大きさからすると花粉並みと言っても過言ではないので、空気中にあったとしてもおかしくない」
「ええっ!? それって現場に近づくだけで危ないんじゃないの!?」 とテル君が!
テル君は私の横にいたからやっぱり前列の二人の話が聞こえてたみたい。と後ろからハルさんの笑い声が。
「ぶっはっは、エルフの風の魔法があるから大丈夫だ! なあ、シス嬢ちゃん」
「はい、毒の空気でさえ遮断できるし、粉塵も大丈夫です!」
「フム。結局あの青石が鼻奥にあったのはその族長だけだったのか?」
「解剖したところ、何匹かのオークの鼻奥にありました。おそらく族長と共にリートの大断崖上からやってきたオークなのでしょう」
「「なるほど」」
と整理するとこんな感じかしら?
・鼻奥に青砂……………………粉塵状で吸い込んだ可能性あり。風の守りなくして青砂の発生源に近づくのは危険な可能性も。
・獣人を捕らえる理由…………不明。
・獣人を連れていく場所………北東方面。途中で別のオークに引き渡す。おそらくその後リートの大断崖上へと連れていくと思われる。
「リートの大断崖の上に何かがある」
うん。私はコークリットさんの言葉にうなずいた。
と私はふと忘れそうな内容を思い出した。
「コークリットさん。風の峡谷の氷河化やデルモスの出現、移動性動物の動き……リートの大断崖上の何かが関わっているでしょうか?」
「そう、ですね」 彼はアゴに手を当てて考え込む「可能性はありますね。一時期にこんなに重なるのは不自然、という弱い根拠ではありますが。ですがもし関わっていたとすると……」
「「関わっていたとすると?」」
「自然環境に大規模な影響を与える存在がある、ということになります」
自然環境に大規模な……皆が唾を飲み込んだ。
そうだよね。一体全体、何があるのかしらリートの大断崖の上に……
「「……」」
「「……」」
そこはかとなく感じる不安。
さっきまで冗談を言い合っていたのに、妙に静かになってしまった私たち。
きっと皆、リートの大断崖上に存在する正体不明の何かを考えていると思う。まだ見ぬ何かに恐れを感じながらも黙々と進む。
静かで薄暗い峡谷が、よくない考えを助長するのかしら……
深い色で何が潜んでいるか見透せない、底知れない川の上を歩んでいるからかしら……
何が待ち受けているんだろう。
多くの動物や魔獣、人間や獣人、妖精や妖魔の運命を巻き込んで……何が待ち受けているんだろう。
そのまま口数も少なく、モスグリーンの水上を歩くこと数時間。
何度も水棲魔獣を倒して進むと前方から風を感じ始め、峡谷の先がだんだんと明るくなってきたの。さらに微かに、波の音が! ええ? 波の音?
「波の音だ!」
「なんで波の音がするんだ!?」
「湖がある! きっと風で波が立つほど広い湖が!」
「風も吹いてくる!」
「先が明るい!」
さっきまでの沈黙が嘘だったかのように、皆がそれぞれ騒ぎ始める。
テル君が今にも駆け出していきそう! ダメよ、危ないから!
「峡谷を抜ける!」
「明るい! 明るいぞ!」
「谷を、抜け──」
「「うおおおおおおおっ!」」
沸き上がる歓声!
暗くて寒い峡谷を抜けた先に広がっていたのは、明るく暖かい開放的な世界!
世界の雄大さを、大自然の壮大さを表す絶景が広がっていたの!
「な、何て、絶景、なの……?」
バクバクと瞬時に胸が昂って! 苦しい! 鼓膜近くで心臓が鳴っているみたいで、耳までバクバク音が聞こえる! それくらい凄い!
この絶景を、何から説明すればいいの!?
たくさんありすぎて、何から説明すれば!?
「目が、目がぁっ!」 テル君が目を隠す!「湖がキラキラして!」
そう、湖! まずは湖!
私たちの目の前には、それは大きな湖が広がっていて……
目の前には遮蔽物のない優美で開かれた湖の世界が広がっていて……何て大きいんだろう!
青い水面は驚くべきことに波が立ち、打ち寄せてくる。普通、湖は波がなくて空の景色や山の景色を映し出すのに、ここは波が立って私たちに打ち寄せる! 何故なの?
その緩やかな波が太陽の光を反射してキラキラと輝いているの。はわぁ~~湖面の上を無数の風精霊が楽しそうに舞い踊っている。湖には小さな島がポツリポツリ浮かんでいて、その距離感から数キロあるんじゃないかしら?
その美しい湖の先には。
その先には。
「な、何だあの大きさは……」
コークリットさんが呻く。
そう湖の先には、壁のように聳える、巨大で遠大な、灰褐色の断崖……
世界を天上と天下に隔絶するような険しい断崖が行く手を阻んでいるの。
湖の美しさや優しさを打ち消すような……
厳格で苛酷で、堂々たる姿の大地そのものが……
重く、重く圧し掛かる大地が、左右に見渡す限り、霞行く彼方まで翼を広げているの。
何て圧倒的な大きさなんだろう……上の方は霞んでいて、まるでヴェールに包まれているよう。あの霞みは、雲? 層雲? ヴェールに包まれているからこそ想像力が働いて、ただただ恐ろしい存在と思ってしまう。
とコークリットさんが、絞り出すように呟く。
「これが……これがリートの大断崖!」
そう! これが、リートの大断崖!
ダロス大陸の大地の六割を占めるといわれる、天上の大断崖!
そして……大いなる断崖を割るように、裂くように、苛烈な苛烈な、ただただ苛烈な……水煙の雲。立ち昇る水煙の雲!
「水煙の中に、見えるのは、ば、瀑布。瀑布……瀑布の、階段」 コークリットさんが息を呑む「瀑布の、階段……」
そう、瀑布の階段が……
立ち昇る水煙の雲の中から、瀑布。でも一つじゃないの。一つの瀑布を登ったその向こうに、また水煙の雲を従えた瀑布……! さらにその瀑布の上にも、水煙の雲を放つ瀑布……!
荒々しくも、荘厳で壮麗な水の階段が、険しい断崖の上へと誘うように、階層を整えながら私たちを待っているの。
もしかしたら、この湖の波の発生源は、瀑布? 落ちる水が波を起こして数キロ離れた対岸のここまで押し寄せるの?
「何て壮麗な、水の階段だ。一体……何階層あるんだ?」
そう、何階層あるか分からない、厳烈で苛烈、でも優美で、美麗な水の大階段が、大断層の上から降りてくるの。
美しい。
美しすぎる……
「はぁ……はぁ……ここは水の、精霊界、なの……?」
息も絶え絶えな私の呟きに嫌味男が答える。
「いや、水の精霊界じゃない。岩場がある、森がある、生き物がいる、空が広がる、雲が流れる」
そう見上げる紺碧の空には、立ち上った水煙が雲となったような綿雲が流れる。
青と白の織り成す、一枚の絵画。
動きのある、左右に限りのない、大きな大きな絵画。
絶景。
何て絶景……
コークリットさんが胸を抑えて大きく呼吸する。
「はぁーっ、はぁーっ、ふぅーっ、ふぅーっ」
ああ、大絶景に感動して心が凄く動いているみたい。表情がキラキラ輝いて見える。
喜怒哀楽の表情を取り戻すには、大自然の絶景を体感させるというのはいいかも。大自然のたとえようもない美しさ、素晴らしさが、心を動かすんだもの。
「大瀑布。リートの大断崖。この上に……」
彼の言葉に私たちは頷いた。




