街の音、水の色
「朝。」
ここ数日で、最悪の朝。ほんの少し意識を手放した時間があるだけで、喉に、鼻に染み付いた臭いがまだ抜けない。
抜けるはずがない。
嘔吐感はだいぶ楽になったけれど、当分は味覚も嗅覚も、ろくな状態じゃないだろう。
身体を起こす。
キリキリと頭が痛む。
視界が渦巻き、歪む。落ち着きを取り戻すのをじっと待つ。
吸い込む空気、吐き出す息、喉と鼻を通して伝わる自分の呼吸。
目を閉じて、身体をもみほぐす。
手、腕、足首、ふくらはぎ、腰回り、背中、首、耳の裏、後頭部。
痛みを訴える場所はない。外傷は感じない。
奇跡的に、外傷はない。
問題は自分の中にある。
それは解ってる。知っている。感じている。
もしかしたら、脳の奥になにか問題があるかも知れないけれど、それを掻き分ける術は自分自身にはない。
心臓、肺、胃、腎臓、肝臓、或いは動脈静脈、毛細血管。
臓器に異常があっても、この世界ではそれを伺い知る手段はない。
恐怖、を感じないわけではないけれど。
私は病院が嫌いだ。
自分の不調を理解してくれないから。
だから逆説的に、処方されるどんな薬も、あまり効果を示さないのかもしれない。
「これを飲めば治る」という事を信じていないから。
足を地面につける。ひんやりと冷たい。
お風呂に浸かりたい。けれど時間に余裕はない。
サンダルに足を通す。手足に力を込めて立ち上がる。異常はない。
目眩は収まっている。
それを安心し、私は一歩を踏み出す。
下宿屋の外。
空は白んだ青を覗かせている。鳥の声を感じる。
生活音を感じだすのはもう少し後だろうか。
土を削るような足音。
サンダルを通して足の裏を刺激する小石の感触。
井戸へ。
足を向けて歩き出す。
その音を嗅ぎつけてか、戸板を動かす音が流れ込む。
街の一日が始まるのだ。
長い夜は明けたのだろうか。
長い長い夜。そう願いたい。一応の朝を迎えたのだと信じたい。
滑車に水桶を掛け、井戸の底に落とす。
水音。
引き上げる。桶に汲まれた水。
いつも通りの水。色もなく澄んでいるように見える。
酌で掬い、左手を濡らす。
「あ。」
バロッキー。あのまま右手にはめたままであったことを今気づく。
そっと外し、肩掛けの荷物にしまう。
そうして、右手にも水を差す。両手は嘔吐を抑えたそのままだったはず。
手をすすぐ余裕すらなかった。
嘔吐にまみれたそのままで、それでもバロッキーは右手にずっとあった。
「後で、拭かないと。」
金属は概ね、水に弱い。固く絞った布巾で丁寧に拭って、空布巾で拭き取ればいいだろうか。
あの騒動の中も、頭痛と吐き気と後悔に苦しんでいる間も、ほんの少しの微睡みも、右手でずっと見守っていたのだ。
井戸水を炊いた白湯は、焦げた肉の香りがした。
身支度を整えて、再び下宿屋を後にする。
食欲はない。食材もない。
何を食べても同じだろうけど、口に入るものを買って帰らねばならない。
けれどその前に、仕事をせねばならない。
その事にまた頭が痛む。
ここ数日が異常だった。
それがまた今日も続くのか、それとも平穏らしきものが戻ってくるのか。
庁舎へと向かう大通りへの道を街の人とすれ違う。
すれ違う?そこに僅かな違和感を感じる。
振り返り辺りを見回す。誰も居ない。
痛みの残る頭で、羽織るように認識阻害をかける。
昨晩の有様は街ではどう受け止められているのだろうか。
意を決し、大通りへと踏み出す。
僅かな生活音、人の声、少し離れた所に、人が集まっている。
あれは、騒動の場所だったろうか。
全く興味がない、と言う訳ではないけれど、それを追う気力はない。
あのまま、私はゾンビや件のコウモリを捨て置いた。
始末をしたのは虫たちが連れてきたキョンシーの亡骸だけだ。そのはずだ。
そしてそれを追う必要もない。嫌でも知ることになるだろうから。
深い溜め息が漏れ出る。その事が、身体や気持ちを重くする。
そう言えば猫が姿を見せない。
ここ数日、出歩くと必ず姿を見せていた。
思い立って、辺りを見回す。その影はない。
そんなものかも知れない。
昨晩、私は確かに解散を言い渡した。
事件が終わったにせよ続いたにせよ、あれでお終いだったのかも知れない。
ううん。
少し違う。
あれで終わりだったのだと、信じたい。
あれだけのことがあったのだから、休みが来たっていいはずだ。
願って、頼んでのことではなかったけれど、虫たちは虫たちで、懸命に何かをしていたに違いない。
その事にほんの少しなりの恩義を感じないほど、私は薄情じゃない。
ううん。
それも違う。
きっと私は自分で表層に思っているよりもずっと、感謝している。
でも何処かでそれを誤魔化していたい気持ちがある。
嫌悪感を感じていたこともあるのだけれど。
その献身を一方通行な想いにさせてしまっていた罪悪感があるのだ。
だからきっと、あの時、少し嬉しかったのかもしれない。
ううん、嬉しかった。
私の危機に次々とやって来る、小さな怪奇。
その正体に気がついて。
あんなキョンシーまがいなことまでして、それでも、きっと、その御蔭で助かって。
心細かった、一人ぼっちだったこの世界の生活で、張り詰めた緊張の糸が、少し緩んだ気がして。
今、居ない猫を、何処か寂しく思っている自分がいる。
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