湯屋の足湯で羽を伸ばして
「いやー食べた食べたー。」
湯屋の湯船に足を浸し体を拭いながら、私は、最高の贅沢を楽しんでいた。
この世界の湯屋は、足湯・蒸し風呂が多い。勿論体を浸す湯船を求めたい所だが、温泉の湧き出る火山帯の歓楽街や湯治場でもない限り、それらは「富裕層、個人宅」の贅沢だ。
大衆の公営施設ではこれくらいが一般的で、何より贅沢の上限値だ。開場早々に駆け込んだとはいえ汚れた湯船に浸るのも、湯船を汚すのも、ちょっと気が引けるものだ。
まだ誰も入ってきていないその一番風呂に、私は足を浸し、蒸気に汗を流している。
ガスや鉱物燃料が開拓されていないこの世界では、湯を温めるには、薪を燃やすか地熱がいい所だろう。
魔法の火というのは実はあんまり便利ではなく、魔素は魔素に特に大きく影響を与える性質がある。
例えば携帯燭台。魔法の火は水に含まれた魔素を吸って炎を起こす事はできるのだが、魔素をあまり含まないように加工された和紙は燃やさない。
勿論光を出しているから、それなりに影響を持っているのだが、延焼反応を起こしにくいらしい。
同じ様に、薪を燃やしたり、死体を燃やしたり、という現象には結び付けにくい。勿論不可能ではないらしいが、対効果がかなり悪いらしいのだ。
その代わり、魔素はそれ自体が生命そのものへの干渉力は持っていて、ゾンビやスケルトンなどといった低級アンデッド化や、過剰になれば吸血鬼の様な凶悪な化け物を生み出す事がある。
人間にとって、割と扱いが難しく、不便な材料も多く持っているのが、この世界の魔法要素なのだろう。これだったら機械文明に特化され、魔法がなかった私の世界の方が住みやすいと感じるものだ。
ファンタジーはファンタジーという空想の中で、都合のいい部分だけ繋ぎ合わせて作られたもの、が殆ど、だと来たばかりの頃はため息ばかりついていたのを思い出す。
「でも、やっぱり肩まで浸かるお風呂もーいつかはー」
そう願って止まない。いつかは私の世界へと帰るのだとしても、それがいつになるかは全く読めない。
だからそれまで湯屋で足湯に蒸し風呂だけで過ごす、というのも悲しいものだ。
仮住まいとしてちゃんと塀に囲まれた定住拠点を得たら、簡単な物でも全身が浸かれるお風呂を欲しいと、ここの所考えている。
一年と少し前、ここよりちょっと大きい、中央と呼ばれる街で、温かいお湯に身を沈めたことを思い出す。久々のお風呂、だったのかな。あれは。
にわかに出入り口の方から声が聞こえだす。時間が過ぎるのはあっという間だ。
人が込み合うまで余裕をもって長居するつもりだったが、仕方がない。明後日また来ようと心に決める。
肌を他人に見られるのは嫌いなのだ。現代日本人の個人宅にお風呂が完備された環境で育った弊害だろう。一人なら1時間でも2時間でも浸かっていられるお風呂でも、見られ騒がれ、落ち着かない中では嫌なのだ。
よく、男のロマンとかで女湯を覗くというのがあるが、勿論、覗きたい、覗いている、そういう男の願望も結構だけれど、バレない様に完全にやってほしいものだ。
見て、墓場まで持っていく覚悟なら、私は構わない。見られたことを認識できないのであれば。もしかしたら墓場ではなく虫の腹の中かもしれないけれど。
勿論バレたら、問答無用で虫の餌食だと思って、そういう覚悟は持っていてほしい。
弊社職員たちに容赦はしないように厳命する。
替えの下着に、替えの衣を羽織って、私は湯屋を後にする。
下宿屋に戻る前に、共同井戸で水を汲んでいかねばならない。勿論、衣類を洗濯するためだ。
界面活性剤についてはある程度認知が進んでいて、この世界では石鹸はそこそこ普及している。生活用品として生産もされていて、そのため、伝染病の類はかなり抑え込まれているそうだ。
この世界でも昔、ペストの大規模発生の様な大事件があったのか、と思って調べてみた所、これもやはり魔素絡みで、慢性的な中毒被害が平均寿命を押さえつけていたそうだ。
現在の文化発展に至る過程で、様々なものに含まれた魔素を除染するという試行錯誤のひとつとして、同時に病気の発生源として大きく認知、共同体で率先して普及されたのが石鹸らしい。
以降、燃料の燃えカスである灰は行政の買取物であり、その行政が依頼し生産した石鹸は、行政から安価で売られている。
勿論自家製で作っている人もいれば、香りや界面活性力を商材にしている職人や商人もいる。
私のはただの石鹸だ。普通の石鹸でいいのだ普通の。そこは予算をかけるべき場所じゃない。
贅沢の優先度も低い。私は、指一本でドラゴンを倒すような高給取りではないのだ。
下宿屋の庭で、これまた共有物の洗濯板と洗濯桶で、私は衣類を洗う。
着替えは毎日だから、入浴の度に洗濯をしていても二日分はたまる。
移動する旅の道中でないだけ楽な方だ。井戸に行けば水を得られる。川や湖を見つけたらまとめて洗濯するという先送りは、携帯するべき衣類も多くなるし、荷物も色々と「重い」のだ。
洗濯機もなければコインランドリーもない。洗濯代行なんてのもありそうでなかった。家族や自身で片付けなければならない、生活の一部だからこそ、石鹸の認知も普及率も高い。
日が傾いてきたが、日中に干す事も、干したまま外出することもできないので、天日干しは断念せざるを得ない。
後は居室に陰干しするしかないのだが、妥協点だ。不衛生というほどでもないのだからいいだろうと割り切ったのは、もう随分前。
「死臭が染みついていくのは嫌かもー」
引き延ばして、木で作った簡易のハンガーに洗濯した衣類をかける。
こういう職業だ。あの臭いは食欲にもかかわるから、死活問題である。そうなったら、民間の香料入り石鹸を検討もせざる得ない。
カラスか何か、バタバタ飛び跳ねる音が聞こえる。もうすぐ鳴き出すだろう。そしたら日没だ。
夕ご飯はどうしようかな。
お腹にため込んだ串焼きの山と相談しつつ、空腹で朝ご飯は未明になりそうだと覚悟しながら、今日は早めに寝る決断を下した。