二つの毒
「意識が少しでも戻れば、味噌玉を溶いた湯を飲ませれば、身体の衰弱は少しは時間が稼げるはずです。できれば、塩気の少し強いものを。長く続けるのは毒ですが。」
元々は、あの「バグマスター」の家の母親の治療について考えていた部分。
低血圧の症状の深刻化の様に見えたから、単純に高血圧に振れば、どうにかなるのかと思った素人考え。
加減や治療の見極めがわからない。だから毒でもあると付け加えておく。
全く効果が出ずに、毒だけが作用することもあるかもしれない。
昔学校の授業で習ったはずなのだけれど、あまり覚えていない。ただ、印象的な言葉でよく覚えていることがある。
『生物は、二つの毒の間でそれぞれの毒を上手に打ち消しあって生きている。』
生物の授業だっただろうか、それとも家庭実習の授業だっただろうか。
片方が強くなれば、体調を崩し、気持ちが不安定になる。血圧が低くても駄目、高くても駄目。
その原因になる習慣や食生活も、例えば栄養価も、それぞれ逆になっている。
『人間はわがままな生き物ですね。』そういう話。ないものが必要。
逆に言えば、わがままだからこそ、生きているし、生きようとしているのかもしれない。
寝たまま、寝たままでいいと思って、そのまま眠り続ける。周りも眠ることを促している。
そうすると、やがてキノコが生えて、キノコになってしまう。『冬虫夏草』。
白雪姫が食べた毒リンゴは、本当は、毒キノコだったのかもしれない。
「この一連の事件は、導師様が犯人なのではないか、という声は確かにあるのですよ。」
このポンコツ役人は何を思ったか、突拍子もないことを言い出す。私は被害者である。
「私は、美味しい味噌玉と、いい香りの石鹸、湯屋で湯を楽しんで、出店のご飯が食べられて、それで鍵のかけられる部屋で静かに寝れる事より上のことは求めていません。」
魅力的と思える、ほんの少しの好条件。それがこの数日で、どれも損なわれている。
どうしてそんな状況を、自分から望むというのだろう。
一瞬でも、定住でもいいかもしれないと思った環境は、もう消えかけている。
これが被害者でなくてなんだというのだろう。
「なるほど。」
たった一言だけ、そう返事をすると、このポンコツ役人はそこで足を止め、私の方へ振り返る。
「導師様はそういった以上の生活をご存知でいらっしゃる。けれど求めていらっしゃらない。説得力のある御言葉です。自らが豊かであることを、不要である、と仰るのは余程の事ですね。」
しまった、と思った。でもそんな気持ちも一瞬で立ち消えて、言葉尻から自分を探られた事に、強い不快感と怒りがこみ上げる。
この性格の悪い役人は、どこまで人を詮索すれば気が済むのだろう。
「自分が豊かであること、自分が貧しいこと、それらはそれぞれ別の立場を何らかの形で理解さえしていれば知ることができる。けれど、今の自分を十分と思えるにはその両方以上を知らなければならない。単に豊かなだけであれば、時としてもっと豊かであろうとするものでしょう。」
私は果たしてそうなのだろうか。
このポンコツの言う通りだとは思いたくないと内心反発が強まる。
「街を維持するということはそういう事なのですよ。豊かな部分、貧しい部分。その両方をよく知り、足るを手放し、足らぬを求める。どちらも過ぎれば毒。街も生きていると言えるでしょう。と、導師様はこの様な事、勿論ご存知のこととは思いますがね。」
けれども、どこかに説得力のようなものがあるのを否定できない。
役職、立場、今の状況。そういったものが、経験として言葉の厚みを増すということもあるのかもしれない。
「導師様の御助言、早速持ち帰り指示致しますよ。」
月の光が街合いの影をすり抜けてその顔を照らす。
全くに、性格の悪そうな顔をし、その目は私を覗き込んでいる。
「御同行ありがとうございました。こちらを。今夜はもうお休みになってください。」
そうして、私の手を取り、何か包みのようなものを手渡してくる。
そこは、私が滞在している下宿屋のすぐ近くであった。
てっきり庁舎に向かって歩いているのだとばかり思っていた。
足の痛みと、役人の背中ばかりを頼りに歩いていたせいで、「どこをどう歩いているのか」を全く意識していなかった。
慌てて、自分の無警戒と無防備さに対する憤りがこみ上げてくる。
私の滞在先すら、詮索されているということも合わせて。
「先日のものと同じで申し訳ない。幸いお口にあったようですので。」
そこで漸く手渡されたものへと意識が向かう。
おにぎりが二個か三個入っていそうな包み紙であった。
あの悪くない味噌もどきの味の記憶が、口の中に唾液をにじませる。
「明日また、庁舎にお越しいただければ幸いです。それでは。」
行き場のない憤りは、彼が去っていくと同時にゆっくりと鳴りを潜めていった。
ほんの一時、辺りを照らした月の光は、また薄い雲の裏に隠れている。
ため息を一つ。
灯籠もない暗くひっそりとしたその場所を、私は何も言わず無感情に一人立ち去った。




