街は見ている
できるはずがない。そんな当たり前の気持ちは、麻痺してしまったに違いない。
いやそうじゃない、多分だけれど違う。
飛び交っている甲虫たちは、サイリウムのライトなのかなと思う。
アイドルたちはファンのサイリウムのライトにこんなに勇気をもらっているのだろう。
自分でそれを実感する日が来るとは思わなかった。
『街角で ねぇ ちょっとまってと 呼び止める』
『そんな淡い期待も 思い描いた日もあったけれど』
素人のただの鼻歌に、カラオケにも満たないそんな歌に、ファンが応援をしてくれている。
『いまではそんな夢も枯れて 一般人で生きている』
きっとそれも、錯覚なのだけれど。
『学校で ねぇ 君凄いねと 声かかる』
『そんな理想を 夢見た日もあったけれど』
『いまでは普通に埋もれて 物静かに生きている』
私のバグマスターの力を悪用した、「サクラ」なのかもしれないけれど。
『街にはそんな人が溢れて 同じ空を見ている』
でもそれでもいい。
虫たちが集まってきたのなら虫たちに聞かせてやってもいいのかもしれない。
『ある日 呼ばれた気がしてふと振り返る』
『そこに昔の自分が居た気がして ふと夢を思い出す』
ちょっとした、慰安の気持ちも出てくる。
いつもありがとう。そういった気持ちにもなってくる。
『学校で ねぇ そんなこともできないの 怒られる』
『そんな今に 呆れ返った日もあるけれど』
虫には歌詞なんてわからないだろう。
だから歌いやすい、口馴染みの曲でも気にせず歌える。
『職場で ねぇ いままでなにしてきたの 怒られる』
『そんな昨日に 涙し流した日もあるけれど』
この世界の人にこの歌詞なんてわからないだろう。
だから好き勝手に歌える、ただ歌いやすい歌。
『街にはそんな人が溢れて 同じ月を見ている』
歌うための歌、歌うことが目的で、その先なんて気にしなくていい。
『ある日 呼ばれた気がしてふと振り返る』
『そこに夢見た自分が居た気がして ふと昔を思い出す』
虫たちのサイリウムが、今この瞬間だけは、私を恐れを知らない詩姫の気持ちにしてくれる。
『ホントは気づいているの ホントは知っているの』
『私をずっと 気にしてくれていたこと 見ていたこと』
淡い月明かりと、甲虫たちの輝きが、街の静けさを、劇場の静けさへと塗り替える。
『ある日 呼ばれた気がしてふと振り返る』
『あの日 私を呼んだ街 あの日 私を慰めた街』
歌詞なんてわからなくても、そろそろ誰かが起こって怒鳴って出てくる。きっとそう。
でもそれでいい。拍手なんてなくていい。
『街は見ている 街は呼んでる』
ほんの少しでも、この街の雰囲気を、あの夜に戻せるのなら。
「凄いことをなさっているのですね。」
透き通るような声が、嘘つきの詩姫の世界を壊す。
まるで歌い終えるのを待っていたかのように。
「私の勝手です。」
「そうも行きませんよ、これだけの事をされてしまっているのでは。」
まるで私が「歌ではなく声を発するのを待っていたように」、静かな世界は終わりを告げる。
座り込み酒を飲み、ニタニタと笑う顔があった。
手を叩き、まるで不思議なものでも見たように喜ぶ顔があった。
決して多くはないけれど、子供も居て、大人も居て、口々に騒ぎ出す。
その真ん中に、私に声をかけてきた「性格の悪い役人」が立っていた。
なんでこの場所にいるのかは別にして、麻痺していた感情が戻ってくるのがわかる。
「次の詩は御座いますか?いま来たばかりなのですが。」
「無許可を理由に、役人に退場を言い渡されないのであれば、もう1曲くらいは歌ってもいいかもしれませんね。」
「それは勿論。私が聴きたいのですから。」
そうして、一曲、また一曲と歌う間に人は物珍しさから少しずつ増えていく。
三曲を歌いきる頃には、歌い終わる度に歓声のようなものが上がる。
歌詞なんてわかるはずもない、異国の言葉の詩。
それでも、私の世界の「人が幸せだった時代」の歌は、詩として喜ばれている。
私のような素人の歌声であっても、どこかに届くようなものがあるのかもしれない。
少し疲れた。
気分転換にはなったのだけれど。それが正直な感情だ。
恭しく頭を下げ、手を振るう。
それに習って、空を舞う甲虫たちは光るのを止め、その場を離れていく。
終わりの合図だと、理解してもらいたい。
正直お腹も空いている。
「素晴らしいひとときでした。立ち会えた幸運に感謝を。」
性格の悪い役人が同じ様に頭を下げ、世辞を投げてくる。
わざとらしさにイラッとする。
「いい詩だった!」
誰かが叫ぶ。その声を皮切りに、口々に、私のささやかな嘘を褒める声が上がる。
甲虫が去った後も、不思議とその場が明るいことに気づいた。
灯籠を持った役人が何人もいる。ロウソクを持ち込んでいた観客も少なくなかった。
雰囲気も、見えないなにかも、月夜の闇を避けるように。
そして急に騒がしさが辺りを埋め尽くす。
あのムクドリの群れだ。
歌に引き寄せられるようにやってきたのだろうか。
けれど誰もそれを気にしている節がない。
「御同行いただいてもよろしいですか、導師様」
役人はそう、とても性格の悪そうな声と顔で言った。




