路側帯にこぼす涙
「ご無事で何よりです、導師様。」
どれくらいの時間が経った頃だろうか。その声にようやく我に返る。
明るい。
けどそれは松明の明かり。辺りを見回す。まだ夜中だ。
それは本当にごくわずかな時間の事だったのか、それとも気の遠くなる時間だったのか。
よく見れば、松明を持った衛兵と数人に囲まれている。
クモの糸まみれの大通りには、衛兵が集まってきていた。
「お知り合いなのですか?」
「ええ、とてもお世話になっている信頼できる方ですよ。」
声の主が、誰かと話している。まだ頭がはっきりしない。
何が現実で、何が夢か。悪夢か。
まだ夜なのだ。いくら夢でも、性格の悪い夢を見せるのは止めてほしいものだ。
頭がかゆい。
そう、体を拭いて、髪を洗いたかったんだ。だから井戸水を汲みに行った。
こんな夜中に?そう、こんな夜中だけど目が覚めてしまった。
何かの間違いでしかない。
「他の方の救助へ。こちらは私が。教会へも、人を回してください。そちらには誰も近づけさせないように。」
「了解であります。」
人の気配を感じて、叫び声が聞こえて、急いで隠れて。
あんまり怖かったところに猫が来て。
猫を追ってここに走ってきた。
その辺りから夢と現実があいまいだ。
本当にひどい夢だ。
その夢の最期が、この性格の悪い演出家だとするなら、本当にひどい夢だった。
でも、残念なことに、少しほっとしてしまった部分もある。
ずっとドクドクと鳴り響いていた心臓が平静さを取り戻していく。
道路の真ん中で転んだときは、道路の真ん中で泣いていてはいけないのだ。
車がやってくるのだから。私はそれを子供の時に教わったのだ。
だからほら、ちゃんと塀まで逃げてきた。逃げてこれた。車に轢かれずに済んだ。
「立てますか?導師様。」
「立てますよ。子供じゃありませんので。」
夢から醒めた。酷い悪夢は終わったのだ。
起きなければならないので、私は起きる。
塀に寄せた体を両腕で持ち上げる。土壁にこすりつける様に体を支えて、起き上がる。
足に痛みが走る。
それもそうだ。当たり前だ。捻っているのだから。
怪我と言えば、足をひねったくらいだ。我慢できないほどじゃない。
痛みの冷や汗を拭おうと顔に手を当てる。
鼻の頭が痛い。
「遅くなりまして申し訳ございません。」
「街の警備体制に疑問を感じます。」
全くだ。こういう事を起こさないのが衛兵の役割で、街の公務を行う職員の使命なのだ。
何が起こっていたのか知らないけれど、管理運営に問題があるのではないだろうか。
「おっしゃる通りです。お手を煩わせてしまいました。」
何を言っているんだ。まるで私が解決したみたいじゃないか。
私は何もしていない。被害者だ。巻き込まれて、酷い目にあっただけだ。
「みゃー。」
猫だ。お前のせいでこんな目にあったのだ。
よくも目の前に顔を出せたものである。
「導師様の使い魔ですね。使い魔というものをこの度初めて拝見しましたが、衛兵も助けられたと聞きます。」
一体何の話をしているのだろう。
多分、見当違いな事を言っているんだろう。この人は優秀そうに見せて、証拠一つ自分で取りに行けない情けない人なのだ。
妙な勘違いをされても困る。
「お話をお伺いしてもよろしいですか?」
「何も話せることはないです。」
そう。何も話せることはない。何も知らないのだ。それなのに何を話せというのだろうか。
本当に情けない人だ。性格が悪いだけでなく、洞察力も低いのかもしれない。
「井戸で水を汲んで髪を洗いたいので、帰りますね。」
問題はクリアされた。だから最初の優先順位に戻ろう。
走ったので砂ぼこりと汗でべたべたである。着替えもしたいし、本当は洗濯だってしたい。最低限、体を拭いて着替えたい。
「お怪我をしてらっしゃるのでは?」
「転んだのと、足を少し捻っただけです。」
もう解放してほしい。いい加減にしてほしい。
そんなに話をしたければ、朝、庁舎に行った時に聞けばいいじゃないか。
今は営業時間外である。
私は認識阻害をかける。
これが答えだ。来た道を戻って、井戸で水を汲むために、私は足を引く。
やっと一人で考えられる。
物々しい雰囲気から解放される。散々な夜だ。
夜風が首元の汗を乾かす。今、乾いたのだろうか。
走り回っていた時間から、結構な時間が経っていたと思っていたけれど、実はそれほど経っていないのかもしれない。
空を見て確認する。
月は西の空の中ほどにある。
記憶通りなら、そろそろ鳥たちが起き始める時間だ。そして、それから少しして空に青白い輝きが灯りだす。
雲一つ見かけないこの空なら、朝焼けだって見る事ができるだろう。
汲んだ水を火にかけて、ぬるま湯にして桶に溜めるぐらいの時間を過ごせば、もう朝は目の前のはずだ。
恐怖感がマヒしたせいか、井戸の水くみに特別な事はなかった。
水桶を下げて、下宿屋に戻る。
桶の重みで、捻った足に強めの痛みが走る。後で冷やそう。
まずは体を拭いて、着替えて、それから日が昇ったら頭を洗おう。
月明かりの薄暗い居室で、濡らした手ぬぐいで体を拭き、足を冷やす。
足を見ていて涙がこぼれる。
「なんでこんな目に合わなきゃいけないんだろう。」
湧き出した涙は、しばらく止める事が出来なかった。
道路の真ん中じゃないから、これはいいのだ。




