余暇は食べるか寝て過ごす
下宿屋について、横になって目が覚めたのは、日が落ちて間もなくの頃だった。
まだ空にほんのりと赤みが残っている。空には星が瞬き始めていた。
この世界には星空がある。ということは、宇宙もあるのだろう。
そういえばこの世界にやってくる前に、「ツクヨミ」を使って宇宙に居住可能な環境を、なんて研究が始まったのを聞いた。
もう三年も経っているから、あちらではすでに現実味を帯びてきているのだろうか。
少なくともこの世界の住人は、あの空がこの大地や太陽と同じようなモノだとは思っていない。
ただ、方角を知ったり、自分の居場所を図るものとしての活用は始まっているのだと聞いたことはある。
まだ見たことのないこの世界の海では、未発見の大陸を探して大海原を突き進む大型帆船もあるのだろうか。
窓板に突っ張り棒をかませて、手持ち燭台に火を入れる。
火といっても、実態の火ではなく、熱を持たない魔法の火だ。生活魔法の一種である。
燭台には薄い和紙が張り巡らされており、拡散された光が、部屋を淡く照らし出す。火が燃え移ることもない。便利なものである。
燭台の魔素を含んだ水が乾ききるまで、夜の半分はこれで、部屋を明るく保ってくれる。
「腹が減っては戦ができぬ、ってね。」
燭台をもって、部屋を出る。鍵をかけて、不在札をかける。
この下宿には、かまどがある。滞在者は自由に使ってよい事になっている。
勿論、逸脱した薪の消費などをすれば話は別だろうけれども、燃料は貴重なのだ。
鍋に水を入れ、かまどに火を起こす。脇に積み上げられた「蒸篭」を手に取る。
この世界では蒸し料理は割と浸透しているようだ。蒸篭は一般的な調理器具である。
鍋に乗せ、蒸篭に洗った芋を放り込む。芋も何種類かあるが、ジャガイモに似たものとサツマイモに似たもの、柔らかい里芋に似たもの、大体ある。
もう面倒なので、自分が食べる上では、ジャガイモもどきはジャガイモと言っている。実際少し柔らかく粘りがある。
このジャガイモもどきは芽に毒はなく、また粉にして水を混ぜると粘り気のある生地になる。
これを焼くなり蒸すと、べたつきが抜けてパンのように膨らんだお饅頭もどきになる。
中に食材を仕込めば「中華まんもどき」だ。これも露店や食堂によく並んでいる。
面倒なので、蒸して、塩を振って食べるつもりで、そのまま蒸篭に放り込んだわけだが。
「餡がなければ、ただの饅頭生地だしねー。」
そのつもりなら、外の屋台で買うなり、食堂で食べる方がいい。料理というのは大変なのだ。
料理で異世界を征服するとか、農作物で異世界の富豪を目指すとか、村を発展させるとか。
そういうのはちょっとゴメンである。人脈はあって困らないが、財産や巨大な拠点は必要ない。
だって面倒は最後まで見切れないから。
鍋の中で水が沸騰する音が聞こえる。室温が上がり、蒸気が蒸篭から漏れ出はじめる。
その音を背景に、調理板の上にいくつかの野菜を敷き、食べやすく切り分ける。もう一つ鍋に水を汲み、その中に野菜を放り込み、「味噌もどき」を混ぜ込む。
味噌もどき。これもこの世界の「もどき食材」だ。実際の味噌よりも少し辛い。豆類と塩の発酵物なのは変わらないらしいが、ちゃんと製造工程を見たわけではない。恐らく、香辛料の類も入っているのだと思う。
この手の料理調味料は、塩のかさ増しといった意味合いもあるらしく、塩そのものよりも、手軽に入手できる。都市でも率先して作られ、商売されているようだ。街の大通りにでれば、大店の取扱店を探すのも難しくはない。
蒸しあがった芋を頬張りながら、もう一つのかまどで鍋を煮込む。
「野菜のごった煮 味噌もどき風味」しいて名を与えるならこんなところだろう。
いい香りだ。お腹が空いた。蒸し里芋もどきを食べながら、それでも食欲が刺激される香り。多分こういうのは日本人に生まれたものの宿命というか、習性といえるのかもしれない。
薄着には少し寒く感じる外気をよそに、鍋の汁を味見する。大変温まる。満足である。これで今夜も空腹に苦しむことなく寝れるだろう。
ちなみにいくら生活が安定したといっても、毎日お風呂には入れない。
蒸し暑い夜や、余程体が汚染された時は割り切るが、残念ながらこの世界では、まだ一日置きのお風呂である。
この点は、定住拠点でないから仕方がない。安宿で入浴などまず不可能なのだ。
宿はある程度集まって運営され、そうした場には公共施設に沐浴場があって、そこを借りるのが一般的で、私もそうしている。
勿論この時間ではもう無理だ。夕日が沈む前、傾きだした頃に足を運ぶのが適切。
今頃はゆっくりと浸かることもできないくらい、客の出入りが激しい。湯船も汚れているし。
明日は報酬をもらって、露天でちょっと味の強いものを買って、甘い餡の入った饅頭を頬張り、夕方に沸かされたばかりの風呂を広々と占有し、手足を伸ばして癒されるのだ。
それを存分に楽しむために、今日はこんな手抜きでも十分。うんそれでいい。明日が楽しみだ。
庶民の娯楽。それも、ありふれた、原始的な。
未来的な日本の自堕落な休日は、多くの設備や資源によって維持されているものなのだと、私はこの世界の三日目には思い知り、高望みは早々に放り投げた。
湯船の有難みを知った二年目の終わり、すっかり自分がオヤジ化している事に気が付いた。食べ物もそう、余暇もそう。お風呂に限った事でなく、省エネで多くを望まない。
修学のため、本を読み漁ったこともあったけれど、これ以上は必要ないと思う。知る必要はない。
そうした時、毎日が綺麗にリセットされて開始できることに気づいた。主に疲労や悩みを。
SNSの投稿に振り回される事は幸せな余暇であったかもしれないが、「その一つ」に過ぎないのかもしれないと感じた。
率先して眠ること、寝れることの大事さを肌で知った。空腹で寝れない夜も知ったから。
これでも色々あったのだ、この三年の中で。
かまどの火が落ちたことを再度確認し、平らげた食器、扱った調理器具を原状復帰する。
公共物の取り扱いは丁寧に。明日も明後日も使うことになるかもしれない、そういうものだ。自分以外が杜撰に扱っていても、それに倣わず、感謝しよう。
調理場を後にする。後はもう、寝なおして朝を待つだけだ。
燭台の火はまだまだ残っている。もちろん消えるのを待つ必要はない。
部屋に戻り、火を消して寝てしまうとしよう。魔法の火を維持する魔素の水もそれで節約できる。
今夜はどんな夢が見れるだろう。夕方に見たはずの夢はもう忘れてしまった。
お腹に残った汁物と里芋の温かさを抱えながら、今夜も寝床にもぐりこんで、かけ布を羽織った。