昼下がりの酒盛りを背景に
仕事を終えて、アンジュの街並みをとぼとぼと帰る。
この都市はこの世界にも様々あるが、わりかし、私がいた日本の田舎の原風景に近い。ただ、日本というよりアジア圏といった方が適切かなとも思う。
家屋には木材が使われてはいるものの、土壁は崩れて骨組みがむき出しになっている家屋も多い。
生活水準が高い家は塀で囲われ、屋根があり、瓦が敷かれ、小さな庭と木が植えられているなど。
貧困層には長屋があてがわれ、そこに住むこともできない最貧層は、郊外にあばら家を仕立て、共同生活をしている。
近くに川があるものの、下流が排水に用いられ、生活用水は井戸を掘って地下水を利用している。
そこそこに雨が降り、季節が変わると暑くなり虫も湧く。
幸いにも、この世界には蚊の類はいないようだが、ヒルや蛆が湧く。
そのため、湿気の多い時期には日持ちする食料は残さない。生活水準にもよるが虫食もあるそうだ。
都市の規模はそこそこに広く、都市の端から端までみれば十キロ相当はあるのではないだろうか。
住民は二万人程度ときいている。大都市は階層式の共同家屋があることなどを考えると階層建築をせずに平屋での展開では、もうこれ以上住民を増やす事も、つもりもないのだろう。
近くの山の収穫、農業用水を引いての畑作、主食は粉を練った生地を焼いたものや、作物を煮込んだ汁物。たまに野生動物の肉類が並ぶ。本格的な家畜飼育は営んでいないようで、自家で卵の収穫に鳥を飼育しているぐらいだろうか。
大きい建物といえば大体は行政の施設だ。
この街の場合は、どれも平屋なため、行政に関わるものを考えると移動距離が多い。
時刻は昼下がり。
食事を終えた職人は仕事に戻り、遅く昼食にありついた職人と、早上がりで仕事を終えた人々が、露天や食堂街で騒音を立てている。これでも静かになった方だと思う。
「報酬は明日の昼だから、今日はもうやる事ないですねー。」
呟きつつ、騒いでいる食堂の客たちの方を眺める。食事はまだいいや。
死体やら虫を見た後だし、胃液がこみあげてくるものもあるし、鼻に死臭が残っている。
実際、こういった死体処理をする人は食事が不規則になるものなのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。
食堂街の近くは公共の設置物も多い。足を向けているのはそういった一つ、公共掲示板だ。
「ふーむ、なになに。」
畳を1枚敷いたほどの大きさの板に、手漉きの紙が何枚も張り付けられている。
この世界には工場で作られたパルプ紙などはない。樹皮の繊維から作られる和紙のようなものだ。それに毛筆やら木筆で文字を起こしていく。それなりに大きい産業のようだ。
だから文字を書く人、読める人というのも珍しくはないし、役所で手続きをすれば、それらを教えてもらえる公共の講座に入ることもできる。
一年目の末頃、私もそうして読み書きを習得し終えた。幸いにも言語の変化や文字の変化にはまだ遭遇していない。都市や地方に依って文化の違いはそれなりに感じるが、幸いなことだ。
一枚の注意書きが目に留まる。それが注意書きとわかるのは、文字の大きさと装飾色だ。
筆記に用いられるのは墨と同じで黒灰や黒鉛の粉末を油や水で溶いたものだが、この世界ではごく少数ながら、水路に湧く巻貝の生体から微量とれる分泌液を使った赤みの入った青の色や、果実を絞ったものを油で溶いた赤も用いられている。
私たちの世界の中世と似たようなことになっているわけだ。
赤で文字に下線が引かれ、また公共機関からの掲示である判印も赤で押されている。
「行方不明・身元不明死体 増加 原因捜査中 知人友人の不明 早急届け出るべし」
ただただ不安をあおる、不穏な文字の羅列。この都市は大丈夫なのだろうか。
役人の正気を疑う。こういったものは仔細がわかるまで伏せておくものではないのだろうか。
掲示されたのはどうやら記載にある今朝のようだ。
という事は、割と前から、そのような届け出や発見があるのだろう。
ただ、山賊や獣害なら、そういった痕跡や、金品の消失などがあるはず。
このような書き方がされるからには、そういったものではない、ということなのかもしれない。何やら嫌な雰囲気を感じないでもない。
この張り紙がされた事に、周りが特別な評価をしていない事。人が集まって、騒ぎ立てるでもなく、平時と変わらぬ、そんな雰囲気である。
「殆どの人が、自分の周りの事と思っていないのか、それともよくある話なのか。」
この街にやってきて二か月あまり。こういう張り紙を見たのは今日が初めてのことである。
時節による慣例的なものなのだろうか。冷害・食害・或いは魔素がらみ。
いずれにしても、自分の身に降りかかってはたまらないので、明日報酬を受け取った際に聞くことにしよう。
情報を疎かにすることなかれ。五体満足に救助されるためには、危うきに近寄らず、である。
他に掲示されている内容に目を向ける。
富裕街の外れの空き屋敷の買い手を求める不動産の記事に、行政からの志願衛兵の募集。
他には数日後に行われる予定の夜間遊興のお知らせに、地主からの農作地開拓者の募集。
定住者向けの情報ばかり。強いて言うならば、数日後の夜間遊興、お祭りのお知らせくらいか。
定住。そんなに難しい話ではない。今は安宿に泊まっているが、定住拠点を考えるのも手だ。
この街の住み心地はそんなに悪くない。バグマスターの仕事はどこにでもある程度変わらずにある。
この世界にも気候の変化はあるが、私が訪れた場所は主だって、雨季と少しの暑気、後は1か月ほどの冷害、といっても雪は降らない。
地球の気候で言えば、赤道寄りの、それでも少し北の方といった感じだろう。
ちなみに近くに海はないようだ。塩の輸送交易があるので、どこか遠くにはあるのだろう。
アンジュは立地としては、雨水と日差しを避けられば、悪くない土地柄といえる。物価も高くない。
「ふーむ。もう少し考えるかな。でも早い方がいいしなー。」
明日の帰りにでも、いい場所は空いていないか聞いてみよう。
もちろん、さっきの張り紙のことを聴いた後で。訳あり事故物件でない事の裏付けをとってからだ。
他に面白そうな張り紙もないので、私は掲示板を後にする。
そういえば、さっきまで騒ぎ声が聞こえてきていた、食堂の酒盛りが静かになっていた。
酒に潰れて寝てしまったのか、それともお開きになったのか。
日が傾き、空が黄色を帯びてきていた。寒くないうちに、宿に戻ろう。夜まで少し寝よう。