祭りの陽気に潜む悪意
日が傾きだした頃から街は、どこにそれだけの人を隠していたのか、といった雰囲気に賑やかさを増していった。
早速、羽目を外している声も響いてくる。
人がごった返してくる前に、食事の当てを探し出して、のんびり眺める当てを付けないと駄目だ。
昔から私は、人混みというのいうのが苦手だった。賑やかなのは好きなのだけれど。
人には近づかれたくない範囲というものがあると私は今も思っている。それは異世界でも同じ。
話す距離、一緒に食事をとる距離、吐息の音の届く距離、肌を擦り合わす距離。
考えただけで、頭を抱える。こういった距離は親密さと切っても切り離せない、と思うのだ。
お祭りの賑わい、バスや電車といった密閉された空間、学校や通学路といった限定された動線。
そうした場所では、しばしばこの距離感が無視される。私はそれが苦手だった。
いや、もっと苦手なのはそうした空間でしばしば起こりうる「人間関係を失念した」接近を許容する環境である。
解放感という美化された言葉や、青春という免罪符でそれらは社会的に許容される。
相手がどう思っているかなど無視されやすい空間が、それらを失念しても「仕方ない」と許容されやすい特別観。
それを私は、凄まじく、嫌悪していた。それは今も、この世界でも変わらない。
お祭りは好きだけれど、その解放感は嫌い。
この考え方は、私の生まれた世界では許容されにくかったように感じる。
その解放感こそがいいのだと、必死な説得が、私の人生で幾度も展開され、だけれど今この場に至るまで、その良さを分からないでいる。
なぜ、「そういう人もいるのだ」という事を許容できないのだろう。私は一度ならずそう思った。
お祭りは、そういった理性を失いやすい空気を含有し、お酒はそうした価値観が世の中にないものなのだと錯覚させる。
そうした、私自身の、きっと拗らせた強情な性格と先入観が、成分や効能、その歴史性とは関係のない部分で、お酒が好きになれないでいる理由だと思う。
そのお酒を、まるで甘い果実飲料の様に浴びて、今も目の前で、男たちが解放感に浸っている。
あれは毒物だ。少なくとも私にとっては。勿論それは私にとっての話で、彼らにとっては最高の娯楽だという事も、ちゃんとわかっている。私は大人なのだ。だからそれは否定しない。
誤解されないように重ねるが、私はお祭りは好きなのだ。
そして、自分を日常から解放する幸せも、それを感じる心も、その大事さもちゃんと知っている。究極的に、ただ「親しさを逸脱した」肌への接触が嫌なのだ。
私もそれに交じって楽しみたい。だから、お祭りの楽しみ方を探すのに、苦労をした。
一緒に楽しむ相手を見つけなさい、と諭されるのがいつものことで、そのハードルの高さなど周りは理解しようとすらしなかった。そしてそうした行為を許容したのだから、たちが悪い。
SNSという、そうした人肌の接触を伴わない、顔すら見えないコミュニティの世界へ繋がるまで、本当に苦労をしたのだ。
今はそれがない。帰りたいと思い続ける理由の一つだ。
だからこの世界では、それまでに試みた悪足掻きを、再度実践し、そしてそれを成功させてきている。
私のことを誰も知ることがないこの世界では、皮肉なことに、それが上手くいってしまったのだ。
「この串焼きは美味しそう。一本くださいなー。」
里芋もどきを遠赤外線でじっくりと焼き上げ、タレにつけて二度焼きした、芋焼き。想像した通りの美味と、お腹にたまる幸せに舌鼓を打つ。
「これは、ケバブに似てますねー。興味深い。」
先に焼いた芋粉のパンに、薄切りにし煮込んだ肉や葉野菜を詰め込み挟んだものを、ケバブもどきと名付ける事にし、腹に放り込む。ソースではなく煮込まれた肉が広げる味わいは初めての感覚だ。
今、味見と銘打って口に運ぶ分と、後程これを楽しむ分と、別々に買い漁り、用意した紙袋に小分けに収めて肩掛けに放り込む。
味が混ざらない様に、昼食に先駆け、職人街で用立てた紙袋がみるみる減っていく。普段の夕食の数倍を散財しているのだが、お祭りにお祭りの味と雰囲気は必要経費だ。
こうして屋台や店の街頭販売で売られたものを買い集め、静かな公園のベンチや遊具の上で、お祭りの喧騒を背景に、夜風やお月様を楽しむ手法を、教えてもらったのはずっと小さい頃。
浴衣だの、お財布だの、好きな男の子だの、子供ながらにおませな友人たちと「遊びたくない」と嫌がる私に、それを教えてくれた人がいた。それでいいんだと教えてくれた人。
「みんなが幸せだ、楽しいんだという、その感情や声が嫌いじゃないのなら」
それを許してくれた数少ない声だった。
それで私は、「自分が嫌いな物」の姿形をちゃんと認識できた。それは革命的な出来事だった。
はっきりとそれを説明できるようになってから、ずっとそれは「理解」されやすくなったし、絶望視していた「共感」すら、「感動」すら得られるようになった。
自分という姿にやっと気づいてもらえた気持ちが後からついてきた。
その運命すら感じた、お祭りという行事を、私は嫌いになんてなれるはずがない。大好きなのだ。
人が増えてきたのを感じる。密度。このお祭りという空間は、密度を操る空間と時間の魔法なのだ。
取り込まれ、恐怖に飲み込まれないうちに、とその頃合いを見計らう。
行きかう人、人々が歩き進む流れ。そしてそれが徐々に理性を失っていくタイミング。
幸福の貯金を切り上げる、その時流を見定める私の目に、ふと、それが飛び込んでくる。
飛び込んでくるはずのない、突然の流れ弾。その跳弾が、私の脳裏を貫く。
祭りには不釣り合いな、悪寒・恐怖。
存在するはずのない、それらが、存在するはずのない、それに。
老いた男の顔。死んだ人間の顔。恐怖と痛みに顔を強張らせたまま死んだ男の顔。
それを見たくないと私が虫に食わせたその顔が、
愛想を振りまく様に、わざとらしく、喜びを分かち合うかの様な、笑みを浮かべ。
『死者二十一名 意識白濁・昏倒者六十二名』
それがその結果だった。




