彼女の口から語られる事実
彼女は屋内に入ると、行灯の火を屋内の灯籠に移している。
入っても良いものなのだろうか、と開かれた扉の前で立って見ていると、彼女は振り返り手招きをする。
「その足、靴擦れをしているのでしょう?」
ぼんやりとした薄明かりの中で、彼女のその視線に、思い出した様に木靴の中の足の有り様を思い出す。
静かに屋内に踏み入ると、既に机の前の椅子に座っていた彼女は、安堵したように確かに微笑んだ。
そこがいつも、彼女の座る位置なのだろう。机の上に置かれた灯籠は、その対座に椅子が二つ置かれているのを映している。
恐らく、対座に座って欲しいのだろう。
「これ、よかったら使ってください。冬季のあかぎれを治すのに使ったものの残りなのだけれど。」
暗い屋内から、いつの間にか手元に手繰り寄せたらしき、その木蓋の容器を差し出される。
「よろしいのでしょうか?」
私からの問い返しに、彼女は確かに頷く。
差し出されたその容器を受取り、それを理由にして、彼女の丁度真向かいとなる椅子に腰を掛ける。
彼女の視線を受けながら、右足の木靴を脱ぎ、ふやけ、赤くなった踵を触診する。
まだ血はにじんでいない。それでも、べたりとした嫌な粘性が感じられた。
「おや?」
容器の蓋を開けて中を覗き込むと、乳白色の粉末が僅かに入っている。
「その薬は初めてかしら?この辺りではよく使われているものなのだけれど。」
無意識に教会でよく使われている、植物油を用いた軟膏を想像していた。その粉末を摘み、患部に振り付け、刷り込んでいく。
彼女は、私がそうしている姿をただ、静かにじっと見ていた。
「何処まで話したかしら。」
薬を塗り終え、容器を閉じたのを見計らって、彼女は話し出す。
「先任の司祭様が、その、この街で起こった大きな事件で捕らえられたと。」
丁度その話をしていたところであった。こちら側の問いかけで止まっていたはずだと記憶していた。
「そうね、そうだった。ごめんなさいね。」
机の上に置かれた、その容器を手元に手繰り寄せ、彼女は私から視線を反らした。
「司祭様は結果的に、亡くなられたのよ。街の人はそう、お役人様の張り出しで知らされたの。でもそれは、全部終わってからの話。もう少し、話に続きがあるの。」
彼女は手元で薬の容器を手慰みながら、静かに話し始める。
「一つ目は、お祭りが中止になったその次の夜。街に大きな獣が入り込んで、大通りで荷車を並べ、そこに野宿をしていた商人さんたちが何人も犠牲になったらしいの。」
彼女の言葉は、おそらくそれが伝聞なのだろう、不確かさを感じられるものだった。
無理もない。話の通りだとするならば、彼女は当時、臥せっていて、実際に見た光景ではないのだろう。
「その時、最期に獣が逃げ込んだのが、教会の敷地だったそうよ。司祭様は庁舎に囚われて居て不在だったらしいの。その際に、亡くなった主人が礼拝堂の奥で発見されたそうよ。」
いくら暴れまわったとしても、無知性の獣が、礼拝堂の奥にまで入り込むとは考えにくい。
その伝聞が確かだとするならば、確かに、先任の司祭が、彼女の夫の死に何らかの関わりがあったとして疑いは晴れないだろう。
だが、腑に落ちない。獣が暴れただけで、墓地があれほどまで荒れるのだろうか。
いや、この街で、先任の司祭がここまで悪しざまに言われている、その理由を考えるなら、合致する、思い浮かぶ理由が一つある。
「ゾンビが、墓地から這い出たのは、いつの事なのです?」
彼女は、一つ目、といった。その事件にはさらに先がある。
「その騒動の翌々日、だったかしら。朧気な記憶なのだけれど、私は、ううん、私のような意識がハッキリとしない、そんな人達が街中から、役所の中庭に集められたの。丁度、今の土砂崩れの被災者たちの避難所の様に。そこで、治療が始まったのよ。それを教えてくれた方が現れたの。」
彼女の答えは、問に対するものではなかった。
けれども、それはきっと、話の流れに必要なものなのだろう。聞き留め、頭の中の時系列に並べていく。
「その治療が始まった夜。街を沢山のゾンビが襲ったの。教会の墓地から這い出てきたのはその時ね。」
幾つか、腑に落ちない。
司祭が不在である、その状況で、処置を施されていない死体が墓地から這い出た、というのなら、それは埋葬された時期にも依るだろうが、一体か二体と言った所だろう。沢山、というその表現とはだいぶ印象が異なる。
それに、墓地があの有り様になるとはとても思えない。事件後、墓地が掘り返され、棺の中まで検めた、とでも言うのだろうか。
そしてもう一つ。
「御者の噂話で聞いた、役所の庁舎から溢れたゾンビ、というのは一体何時の話だろうか。」
思わず口に出していた。
「そう。貴方はそう聞いているのね。」
彼女は私を見て、それから静かに首を振った。
「治療が進んでいく中で、私たちは暫くの間、庁舎の敷地に居たの。その間に、ゾンビが、庁舎から出てきた事は無いわ。そしてそれ以降も。」
彼女はそれまでの、伝聞の不確かさを感じさせる言葉とは対象的な、断言的な口調で応える。
「事件以後、この街で亡くなった人は、お別れを済ませた後、全て、導師様が弔ってくださっているのだから。」




