夜の出陣式
昨日から踏み止まっている雨が、そのままに今日も陽が沈んでいく。
厚い雲に覆われたその隙間、遠い白い空に、朱色の名残を残して、ゆっくりと夜の帳が下りていく。
庁舎の中庭に、整然と並んでいる衛士たち。それは、もうすぐ始まる、盛大な捕物劇の合図を待っている。
日中にも騒ぎがあったと、ポンコツが言っていた。
その犯行を行った連中は、衛士たちに取り押さえられる事なく、街に潜んでいる。
追い詰められないように、それでいて、蛮行を許さぬ程度に追いかけられ。
衛士たちは必要最小限の見回りを展開して、この夜の捕物のために、余力を蓄えた。
それだけ、私は当てにされている。
「着火!」
号令が上がる。庁舎の中庭の陣中に、篝火が焚かれる。
大丈夫。ここに至って、逃げ出すつもりもない。
私に退路なんて無い。ここで逃げれば、待っているのは狩られるのを待つだけの日々。
「いつでもどうぞ。」
ポンコツが、いつの間にか背後に立って声をかけてくる。思わず、ため息を吐き出す。
口の中も、喉も、まだ少し痛い。けれども状況は待ってくれない。
それは分かっていても、ほんの少しだけ、せめてココロを整える時間が欲しい。
「ああ、そうそう。忘れておりました。」
ポンコツがそう発すると同時に、視界の端から、彼女が現れる。
そうして見覚えのあるポシェットが、篝火の灯りに照らされ差し出される。
「昼間、お休みの間に、彼女がどうしてもというので、内々に取りに行かせましたよ。ああ、中身は見ておりませんのご安心を。」
嘘だ。絶対に中身を見て、問題がないことまで確認している。
屋敷の奥の、部屋の片隅に、葛籠の中に仕舞っておいた、このポシェットを、今ここで、この場で、差し出してくる意味を、察しているんだ。
「貴方にはお礼を言いませんよ。」
ポシェットを受け取り、彼女手を握り、擦ってから、頷いて、それから目を閉じて、はっきりと伝える。
ポシェットを開いて、その中に手を伸ばす。
その中でずっと待っていたであろう、私に残された兄さんとの最期の繋がり。
黄銅鉱のバロッキー。
冷たい地金に指と手首を通すと、自分の体がまだ温かいという実感を得る。
手に通したそれを、篝火に掲げて眺める。
「大丈夫。解決して、一緒に屋敷に帰りましょう。」
掲げた手の向こう、そこに唇を閉じ、こちらを真剣な面持ちで覗き込んでいる彼女に、静かに声を掛ける。強張った顔の頬を釣り上げて、微笑む真似をして。
『消えゆく炎は、西の空に沈み』
恥ずかしい気持ちを抑え込んで、痛む喉を圧して、枯れ気味の声を張り出して歌にする。
『灯る遠き日の思い出は、東の空を昇る』
既に呼び寄せて、この敷地の陰に潜ませていた弊社職員にココロの糸を紡いでいく。
『何が映るの、あの白い星に。降り注ぐ光は、何を照らすの。』
遠く向けた視線に、歌と同じ様に登り始めたばかりの月が見える。
『ただ一つ、判る事がある。それはきっと。』
『私が幸せだった、ありもしない嘘のあの日の事。』
歌に、ココロのままに、魔素を注ぎ込んでいく。篝火の外に、点々と、青白い光が浮かぶ。
『夜の静けさを駆け抜けて、風と一緒に。聞こえるはずもない、木のざわめきが。』
『音を運んできた風が、ヒビ割れたココロを連れ去って、駆け抜けていった。』
その青い光に伸ばすように腕を差し出し、その手のひらを返して、静かに横に払う。
まるでアイドルの歌唱のように、その手振りを交えると、感情に乗って、指示が魔素の糸の先へと散っていく。
『時間は過ぎていく。それでも私は生きていく。』
『風は何処かで欠けた、ココロの破片を運んでいく。』
『欠けたココロは、あの空を浮かぶ、白い星の様に、今日も夜を照らしている。』
一のサビまでを歌い上げる。喉が熱を持って痛みを訴えている。
口を紡ぎ、胸元に手を当てる。鼻から入った空気が、肺でコロコロと音を立てている。
「お水ください。喉痛いです。」
情けないなと思いながら、不安そうにこちらを見たままの彼女に声を掛ける。
号令が飛び交って、衛士たちが庁舎から物々しく出立していく。
先に街中に散った弊社職員たちが、動くはずのない死体へ彼らを導いていくはずだ。
私は、折々に指示に変わりがないことを、歌を通じて送り出すだけでいい。
怪異と戦う力なんて、私にはない。身体の調子も、昨晩の影響ですこぶる悪い。出立していった彼らが、明日を繋いでくれると、ここで信じて待つしか無い。
ふと、夜風が、すっと駆け抜ける。鼻腔に溜まった焦げた臭いのその先に、どこかで何かの花の香のようなものを感じた気がした。けれどもそれは直ぐに感じられなくなる。
「夜は長いです。まだ始まったばかり。何か口にされますか?」
赤い篝火に頬を照らされたポンコツが、椅子に座り込んだ私を見ている。
衛士たちと同じ様に、軽装ながら防具を纏い、手にはクロスボウの様なバネ弓を持っている。
「私も、これより向こうへ出てきます。こちらの事は、近くのものに伝えてくだされば対応してくれるはずです。」
彼の後ろに佇んだ、見慣れた受付職員がこちらの視線に応えるように軽く会釈する。
「石鹸と湯上がり用のお茶、約束ですからね。」
まだ枯れる声を小さく絞り出すと、それでも聞きつけたらしき彼は、目を細めて笑うと、私に背を向けた。




