再びの暗い夜へ
床が冷たい。押し込まれた房の隅で、壁に身を当て座り込んで、初めに思ったのはそれだった。
庁舎の直ぐ側であったこと。目撃者が多数いたこと。炭化し身元も判別できない死体があること。
それだけの状況があったにも関わらず、やってきた衛士は、私を縄で拘束したりはしなかった。
ジリジリと煩い耳鳴りと頭痛は鳴りを潜めたけれど、鼻腔には数日は消えない焦げ臭さが残り、唾液で湿らせた舌も同じ様に痺れている。
「導師、様。」
耳に入った声に目を向ければ、格子越しの逆光の向こうに、彼女が立っていた。
「今日はお帰りなさい。貴方は、何も悪くないのだから。」
腫れた喉を鳴らし、僅かに痛みを感じながら、それでも伝えるべき事を発する。
やってきた衛士が私に同行を求めると、そこに彼女が割って入って騒いでいたのは、視界を残して正常に機能しない外界の向こうでも、何となく解った。
彼女の知人を、眼の前で殺したのだ。仲違いはあったのかもしれないが。
だから、恐怖や、憤りがあって当然だと思う。それでも、彼女はそこに立って私を見ている。
ここに入れられ、何度目かになる、口に溜まった唾液を飲み込む。
その僅かな水分でも、今は酷く痛く、奥歯を噛みしめる。
据え灯籠の逆光の変化に、房に誰かが入ってきたのを感じ、目だけ向ける。
「お出しするように、との事です。どうか、お二方、ご同行を。」
行灯を手にやってきた衛士が、房の格子にかけられた鍵を開け、中に入ってきた彼は、私の顔を照らす。
「貴方は、怖がらないのね。」
「この目で、拝見するのは、初めてです。」
眩しい灯り越しに、その向こうで、彼女が眉間にシワを寄せ不安そうにこちらを見ているのが解った。
「そう。」
壁に手をついて身を起こす。慌てて彼女が駆け寄ってきて、私の身体に肩を寄せる。
そこまでされる理由があるとは思えないけれど、その肩を借りて立ち上がり、身体を払う。
「こちらに案内をした衛士に、失礼がありましたでしょうか。」
彼は房の格子から出るように、手振りで外を促す。どういう手配があったかはわからないけれど、本当にここから出ていい様子だ。
公然での、殺人の現行犯を捕縛しておいて、私自身もそれを認めている。或いは、そこに情状酌量の余地が認められたのだろうか。
「あのっ、導師様の、外套は。」
側を離れない彼女が、控えめな声でそれを問うと、彼は脇に抱えたそれを差し出す。
折り畳まれていたが、捕縛時に接収された私のものだろう。他の私物もどこかに保管されているのだろうか。
もし押収されているのならば、屋敷にある、兄さんのバロッキーだけは返して貰いたいものである。
「導師様、こちらを。」
外套を広げ、埃を払うように広げると、彼女は私にそれを被せる。そういった畏まった所作は、今は少しだけ、煩わしい。
自らに認識阻害をかける気にはならなかった。
殺人という行為の興奮か、或いは自身の正当性の証明か。
相手に殺意があったのは明確だから、それを後ろめたく思う様で、何となく嫌だった。
「もう、彼女は帰って良いでしょう?長くなるでしょうし。」
衛士に目をやり、声を張る。側に居て欲しくない、そういう気持ちが気まずさの中にある。それは房の格子越しに度々やってきていた彼女を見る度に思っていた。
「御二方で、との指示です。」
誰からの指示なのか。考えるまでもなく、あのポンコツだろう。
今回は、怪異を殺したことと、訳が違う。私が殺したのはこの街に属する住人だ。それなのに、私にこうして関わってくる。
ただ、解らないでもない。
何故あの青年が、私に直接の殺意を持って現れたのか。その点だけは、唐突が過ぎる。
死人に口なし。それでも、探って邪推してくるのが、あのポンコツだ。
庁舎内は既に灯りも落とされ、今は静まり返っている。罪人の収容房へ近寄ったことはなかったけれど、行灯の光に照らされ歩いている内に、見知った廊下へと辿り着く。
暗い廊下の向こうで、灯りの漏れている部屋がある。
よく目を凝らせば、窓口やその向こうにも灯りが焚かれている様子だ。
「こんな時間まで、仕事熱心なことですね。夜明けも間もなくではないですか?」
そこがポンコツの執務室であるのは直ぐに分かった。中にいる人物も、恐らく、予想通りだろう。
衛士は扉の前に立つと、ノックをする。
行灯に照らされるその仕草に、彼が度々そうして、私にこの部屋への入室を促した、廊下の行きずりの役人であることに初めて気づく。
「どうぞ中へ。」
扉が開かれて、暗い廊下に灯りが広がる。
中に目を向ければ、奥の机に座ったポンコツの他、数人の役人が滞在しているのが判る。
足を踏み入れる。役人たちの視線が私に集まる。けれどその視線は直ぐに泳ぐ。
そんな中で、最奥のポンコツだけが、表情を変えずに私の顔を見つめている。
「よろしいのですか?」
そんな言葉を、ポンコツが発する。その意味は直ぐに解ったけれど、外套は被らず、そのまま足を進める。
「温情を求める側なのに、顔を隠していては心証が悪いでしょう?」
そう口にして、ふと、右腕僅かに重みを感じて目を寄せる。隣で彼女が私の影に隠れるように身を縮めていた。
ポンコツが目を伏せ、溜め息を吐き出す。その素振りの後、改めて私ではなく、その側に寄り添う彼女に視線を送る。
「さて、どう説明したら良いでしょうかね。皆さんには、案はありますか?」
そんな口ぶりで、ポンコツは目を細め、私たちにではなく、臨席する面々へと言葉を投げかけた。




