朝霧の中に
朝の光が礼拝堂に流れ込むのを感じ、微睡みから目覚める。
昨晩、ずぶ濡れで戻った教会には明かりが灯っておらず、司祭の姿も見えなかった。
私室に濡れたローブを吊るし、雨の中、井戸水を汲んで被った所までは記憶があった。
礼拝堂の壁にもたれ掛かり、足を放りだして座ったまま眠っていたのに気がついたのは、起きてからの事だった。
身を起こすと、身体中が痛みに悲鳴を上げる。半裸の身体に、ガサガサと硬い髪質。
私室に吊るしたローブは水気こそ飛んでいたものの、同じ様に立てかけた木靴はまだ湿気を持っていた。
辺りを歩き回っているが、教会内や敷地に司祭の気配は感じなかった。
もう一度、井戸水を汲んで被り、布巾で身体の水滴を拭き取る。
先日大通りの大店で調達した粉を練って丸め、炊き場で乾かしてあったものを、そのままに口に放り込む。
身支度を立てて、傘を手に、礼拝堂の扉を開く。
すっかりと白んだ街並みは、細かい雨粒が朝霧を作っていた。
地面は泥濘んでいる。昨晩から降り続けた雨の量は、それなりに多かったようだ。
山崩れ被災者の捜索は、恐らく、打ち切られているだろう。
漠然と、足の向くままに、傘を手に、教会の敷地を出て歩き出す。
宛があるわけではない。それでも、どこか心が落ち着かない、熱のようなものを残していた。
意識の外で、どうやら足は大通りの方へと向いている様だ。
そんな時、霧の中に、僅かに浮かぶ誰かの背中を見つける。
傘を傾け、静かにそこを歩いてる後ろ姿は、直ぐにでも霧の中に消えてしまいそうであった。
その背中を追うように大通りに出ていけば、それは、視界の先を街の外に向かうように進んでいく。
危うい雰囲気を感じ始めていた。
それは例えば、山崩れの現場に向かっていくのかもしれない。
家族が、友人が、土砂の中に埋もれているのなら、それを探しに行くのかもしれない。
昨日の青年の様相を思い浮かべる。
ああした事が、自分の目の前のみただ一件だけ起こっていたとは、今更ながら思えなかった。
改めて気がつけば、意思を持ってその背中を静かに追っていた。
それでも、昨日の疲れからか、木靴が重く感じられ、その距離は縮まっていかない。
その後ろ姿は、傘を揺らしながら、街の門の外へでて、外周を静かに進んでいく。
覚えがある道であった。その先は、記憶にも新しい、土砂の流れ込んだ川の方向であった。
舗装されていない道に、足元が一層と泥濘んでいく。
靴の中で、踵も足の裏も、悲鳴を上げているのが判る。それでも、その背中との距離を詰めようと歩を繰り出す。
「危ないです。行ってはいけません。」
後、数歩。その距離を必死に手を伸ばし、肩を掴む。
不意に傘が振り落ち、傘に隠れたその姿が目に入る。
掴んでいた肩が振り払われ、その拍子に、頭まで被っていただろう外套が開ける。
思わず、目を奪われる。
振り返ったその姿は、顔の上半分が、古い火傷の跡のように赤紫に変色し、硬く強張っている様に見える。目元から下が白く、その差異が際立つ。
被災者、というわけではなさそうだ。それでも、一瞬覗き込んだその瞳は、まるで生気が抜け落ちている様に思えた。
その姿は地面に転がった傘を拾い上げると、無表情に横顔を覗かせたまま、濡れた傘の雨水を払う。
「貴方が一人で歩いているのを見て、申し訳ないですが、心配で追ってきました。」
顔を傾けず、そのまま横目で、睨まれたような気がした。そこで初めて、恐らく、彼女、の意思のようなものを感じる。
嫌悪と、落胆と。その目から感じられたものを、言葉に当てるならそんな所であろうか。
その先の言葉が出てこない。
そんな内に、彼女は再び傘を肩に当て傾け、そのまま静かに私に背を向ける。
呼び止めようと手を伸ばすも、その手をすり抜けるように、彼女は街の門の方へと道を引き返していく。
ああ。そこで、気がついた。
彼女は、ここ数日、度々視界に現れていた、「人物」なのだと。
彼女はここへ何しに来たのだろう。
この先の土砂の流れ込んだ場所に、いく理由があったというのだろうか。
あの青年の縁者、なのだろうか。それとも、また違う被災者を追って。
思わず、その背中を再び追う。
けれども、視界に確かに捉えていた後ろ姿は、朝霧の中に消えていく。
まるで、追われる事を拒むように、見えるはずのその距離を、その後ろ姿は掻き消えていく。
泥濘んだ地面に吸い付かれているように重い木靴を懸命に持ち上げて、歩を進めるも追いつくことはなく、街の門へと辿り着いた時には完全に見失ってしまった。
「修道士さん。」
大通りの真ん中で、呆然とし、手を膝に当て息を整えていると、声をかけられる。
顔を上げ、傘を持ち上げ見回すと、そこに立っていたのは先日の参拝者の顔があった。
「どうされたのです?こんな所で。」
傘を手に彼女はそこに佇み、私を真っ直ぐに見ている。
「いえ、何でもありません。貴方は先日の。」
私が顔を向けると、彼女は傘の向こうで静かに微笑む。
「そう。なら良かった。朝の散歩にしては、こんな天気です。随分足元が悪いのではないかしら。」
そんな彼女の言葉に、気を持ち直し、軽く会釈をして、歩き出す。
随分と長い時間、外出をしてしまったのかもしれない。
それは、確かに朝の散歩にしては、長かったのかもしれない。
先程見た、彼女の表情を思慮の外に追いやり、帰るべき教会への道を急ぐことにした。




