諦められる理由
川のあったと思われる場所。そこには数え切れない倒木と土砂が流れ込んでいる。
そんな袂に、彼に手を引かれるまま、案内をされる。
ごく僅か。本当に言われなければわからないそこで、土の中から、人の指らしきものが這い出ている。
掘り起こすための道具もない。心の中で、十字を切り、安らかなる眠りを祈る。
そうした上で、その眠りを妨げることに対しての許しを請う。
「早くしてくれよ!親父が死んじまうだろ!」
既に泥まみれになりながら、青年がそこで泥を掻き出している。道具も使っていない。その爪で、その指で、懸命に泥を掻きながら、必死に声を上げ、そこに居た父に、声をかけ続けている。
しかし、掻けば掻いただけ、周囲から土がこぼれてくる。
きっと、最初は、今しているのと同じ様に一人で助け出そうとしたのだろう。
この場所は危険すぎる。山崩れが更に進むことも考えられる。
それでも。
それでも彼は、諦めきれず、土を掻き続けるだろう。
彼を危険なこの場に再び引き戻してしまったのは、私のどうしようもない、落ち度であった。
「板などで、土留をしないと。」
周囲を見回すが、そんなものはない。だがそれは口実になる。
「私がここに居ます。端材でもなんでも良い。崩れてくる土を抑える物を持ってきてください。」
青年を掴んで、その場から引き剥がす。
彼は思ったよりも早く帰ってきた。どういった経緯で手に入れたか解らない、泥まみれの板材を束ねて背負い、それをこの場でガラガラと放り下ろした。
「見ていてください。」
そのうちの一枚を手に、土の中に突き立てる。鈍い音がする。恐らく、その下にそれがあったのだろう。
当たりをつけて、それを沿わせて突き立てていく。その下にあるものをなるべく傷つけられずに済むように。
雨が振り始めたら、もう無理である。崩れ始める予兆にも気を配らなければ、逃げ遅れるだろう。
だが、彼は今度こそ、この場を離れないだろう。
幸運にも生き延びた彼を、この先も生かすためにも、諦められる、結果が必要なはずだ。
何度か、鈍い感触がした。
板切れを掻き出し道具として使って、それでも、埋まっていた腕が漸く姿を表した頃には額に汗が浮かんでいた。
その腕をたどるように、地面に齧りついた青年は、手で土を掻き出している。
「っ、親父!親父!」
その声に目を向ければ、土の中から頭が浮かび上がっていた。
土留の板も足りない。周囲に転がっている石もつかって、土を押し留めながら、周囲に聞き耳を立てながら、腕を振る。
再びの山崩れの恐怖に押し潰されそうになりながらも、奥歯を噛み締めながら土を掻く。
首、背中。そこまで来て、もう一本の腕があっただろう場所の上には土留の板が突き立てられていた。
青年の手がそこで止まる。そこで青年の心は切れてしまったのだろう。
その体を押しのけて、意を決して、手に持った板を、その場に上から突き立てる。
「っ、止めてくれよ!」
青年が足に縋り付く。しかし、先程私の手を引っ張ってここにつれてきたような力はない。
何度も、何度も突き立て、幾度も鈍い音が響き、血が飛び散り、漸くそれが千切れて離れる。
「連れて帰るんでしょう!しっかりしなさい!」
そして、板を手に土を掻く。そうして、青年も力なく、それでも再び土を掻き始めた。
片足も、土留の板の下にあった。右足の膝から下が失われた。
辺りには血の匂いも充満している。
それでも土の中からその身体を引きずり出せた事は幸運に他ならなかった。
改めて、自身でも、掻き出したその土の量に驚く。だがそんな感慨に浸っている時間はない。
空はもう、日がすっかりと傾いていた。切れた息を喉に押し込めて、地面に倒れ込みたい気持ちを堪えて、座り込んだ青年の腕を取る。
「貴方は、生きなければ。」
動こうとしない彼を遺体から引き剥がし、それを起こす。
「背負います。貴方は後ろから支えてください。」
頬に、遺体の顔が擦り寄る。身を起こして歩き出そうとした時、それが少しだけ軽くなったような気がした。
陽はどんどんと沈んでいく。
そのまま、言葉もかわさないまま、何を口にしたら良いのかわからないまま、街に向かって歩き出す。
雨が踏み止まったのは奇跡とも言えた。
あの場から、彼とともに離れることができたのもまた、奇跡だろう。
「なんで、死んじまったんだよ。」
長らく口をつぐんでいた、その声が、枯れてしまっていなかったのに、少し安堵する。
「良いお父さん、だったのですか?」
今更ながら、そんな言葉だけが出てくる。彼に辛いことを思い出させるだけにも関わらず。
「喧嘩ばっかりだ。昨日の夜だってそうだ。河になんて行くんじゃねぇって言ったのに、今朝起きたら居なくて、雨の中、街の役人たちが走り回ってて、遠目に漸く見つけたと思ったら、土砂に飲まれて。」
「私には物心ついた頃には父も母も居ませんでした。親と喧嘩した思い出があるというのは、羨ましいです。」
今、頬に擦った亡骸の顔が、どう怒り、どう笑い、どう過ごしてきたのか。少なくとも彼は、そういったものを一斉に背負ってしまい、諦めが着かなかったのだろうと感じる。
「私は、今までの、貴方の事はわかりませんが、けれども、これからの貴方の事なら、何か力になれる事があるかもしれませんよ。」
彼は生きなければいけない。家族の分も、生きて、弔っていかねばならない。上手く生きていければ、いつか、幸せな新しい家族を作る事もあるかもしれない。
それきり、彼は再び押し黙る。
街の門を潜った頃には、周囲はもう、暗くなり始めていた。




