災禍と霧雨の中に
雨音の中、微睡みから覚めたのは礼拝堂のドアが開かれた音を聞きつけたからであった。
視界は、未だ暗い。どうやら、自室の清掃も手につけられず、今日も眠ってしまっていたらしい。
浮かび上がりつつあった意識の中で、確かに、直したばかりの礼拝堂の大扉が開かれた、そんな音が聞こえた気がした。
硬い石壁を背もたれに寝入っていた身体を起こし、手探りと記憶を頼りに燭台と火打ち石を握る。抜け切らない疲れに朦朧とした意識を奮い起こして、火打ち石を打つ。
蝋燭が火を灯すのに、一体どれだけかかっただろうか。
身を起こして部屋を出る。掃除の行き届いていない、埃の積もった廊下に出れば、未明の冷たい風の流れが感じられ、明らかな雨垂れの音が確かに耳に響いてくる。
礼拝堂に入ると、人影が長椅子に座り込んでいる。
慌てて身なりを見繕い、背筋を正して、そこへ歩み寄る。
「司祭様?どうなされたのです?」
濡れたローブそのままに、確かに彼が、そこに座り込んで足を放りだしている。
「着替えのローブをお持ちします。」
「よい。気にするな。」
ハッキリとした拒絶が、確かな声で発せられる。しかしその声は、濁っている様にも感じられる。繕ったように、明らかに大きめの呼吸で肩を揺らしている。お疲れなのだろう。
「朝までは未だ時間がある様子。お部屋に戻られ、着替えられたほうが良いかと。私室でお休みください。」
礼拝堂内の壁掛け燭台に火を移しながら、その場の司祭に休息を促す。
「では、お前に任せる。夜が明けたらこの街の役所へ行け。そこでお前のやるべき事をせよ。」
司祭は、椅子の背もたれに手をかけ身を起こすと、緩やかに立ち上がり、歩き出す。
「私が、ですか。一体何を。」
「行けば、判る。」
びちゃりと濡れたローブを引きずるように、ボンヤリと照らされつつある礼拝堂内を歩いている司祭は、背を向けたまま放り捨てるように言った。
役所の位置は、昨日大通りの大店を巡った際に把握している。丁度この場所から大通りを挟んで反対側にある区画であったはずだ。
急ぎ、身支度を整える。雨の中を井戸に出て、手足を濯ぎ、石鹸で顔と髪を洗い流す。
ローブについては最後の換えとなるだろう。洗濯をし干さねば、体裁の良いものはもう無い。
手近なものに何を用意すればいいか解らず、取り急ぎ、鞄の中に羽ペンと墨入れを詰め込む。雨天ということもあり、布巾も用意しておいたほうが良いだろう。
昨晩に入る前に、倉庫の奥にしまわれていた傘も、礼拝堂の片隅に立てかけてあったはずだ。
空が白み始めていた。
意を決して礼拝堂の大扉を押し開き、霧雨の中、傘を広げる。
辺りの地面には水たまりが転々としている。空気は冷たく、息を吐けば仄かに白い。
教会の敷地を出た頃、直ぐに灯籠を手に走っていく街の衛士の姿を見かける。
雨でも消えない、恐らく魔法の火の灯籠だろう。明るくなり始めているのにそれを持っているという事は、彼は暗い頃から走って、今またどこかへ向かっていくのだろう。
昨晩も屋台街が開かれていた通りを歩けば、雨の中、壁前に衛士が立つ屋敷が一つある。
同じ様に、雨中でも灯籠を手に、もう片方の手に傘をさしている。
この早朝から定点での見張りをしているというからには、街の要人の屋敷が近くにでもあるのだろうか。
その前を静かに歩き抜ける。そこへまた、視線の先から灯籠を手に衛士が走ってやってくる。
傘もささず、代わりに頭に幅広の水除の付いた被り物をしている。
屋台通りを抜けて、暫く大通り向かって歩いていくと、今度は後ろから衛士が走って私を追い抜いていく。
どうやら、流石に様子がおかしい。急な配置転換でもしているのだろうか。
その懸念を胸に大通りに出てみれば、先に駆け抜けていった衛士が一団に合流している。
まだ誰も歩いていない大通りの中央で整列し、声を張り上げて点呼を取っている様に見える。
孤児院で催しをする際、ああして私を含む子供を並べ、声を上げて点呼を取っていたのを思い出す。
あの時の記憶はこれからの催しを楽しみにする無邪気な子供の表情であったが、眼の前の衛士たちの表情は今、正に、硬く、街で何かが起こっただろう事を感じさせる。
歩を早め、大通りを横切り、役所庁舎に向かう。
彼は、「行けば判る」と言った。
街に何かが起こった事と、彼が濡れたローブで座り込んでいた事は何か関係があるはずだ。
庁舎の敷地の前にやってくると、慌ただしさに、声、叫びなどが混じってくる。初めて足を運ぶ場所であるが、それが「いつもの光景」ではない事は疑い様がない。
多くの衛士が出入りをし、それは恐らく、非常の任であり、動員なのだろう。
それで教会が、或いは一介の修道士が「やるべき事」があるとするならば、それは絞られてくる。
庁舎入口に立った時、そこには今、丁度その時、指示役の号令で出発しようとする一団があった。
そしてその指示役が、その場を離れ、足を向けていく先に、既視感のある姿が見える。
あの時の、私に声をかけてきた、頭まで外套を纏う小柄な誰か。
傘をさし、静かに佇む、その足元には猫が添っている。
だが、確かに目で見ているその眼の前で、その姿は、霧雨の中に紛れていくように、消えていった。




