自傷にも似た、罪悪感
「朝。」
もう、湯とは言えない浴槽の中で微睡みから覚める。
何度か、途中目を覚ましたことだけは覚えている。
徐々に水に戻っていく、湯船の感覚だけは。
冬季だったら、そのまま命を落としていたかも知れない。
外で鳴く鳥の声。白み始めた屋内が、朝が来たことを知らせている。
浴槽から上がる。水音に驚いたのか、鳥たちが飛び立っていく。
落し蓋が浮き上がり、ゴトゴトと音を立てる。
カラカラに乾いた備えの布巾で身体を拭うと、皮膚に擦れてガサガサと痛みが走る。
ふくらはぎにずっしりと重りがぶら下がっているような、気だるさが襲う。
少し遅れて、薄っすらと目眩がする中、下着を身に纏う。
ポタリ。ポタリ。
しとしとと、雨水が滴る音が屋内に響いている。
環境音に最適化された耳が、それを聞き分けている。
寝室に丁寧にたたまれていた外着、そして外套を羽織ると、玄関で床に倒れていた傘を手に外へ出る。
ポタリ。ポタポタ。
傘からは直ぐに水滴が滴り落ちる。
静かに表門を開けると、門の軒に、衛士が一人立っている。
屋台街は流石に全て引き払われており、ひっそりと朝の雨音だけが響いている。
衛士の脇を、静かに抜けて、歩き出す。
木靴に地面の水たまりの音が跳ねる。
パタパタパタパタ。
傘に落ちる、雨の音だけが響く白い朝。誰も居ないかのように、まだ寝静まった街。
そもそも、屋敷外はまだ寝静まっているような時間である。大通りの商店などは既に目を覚まして始業をしている所もあるかも知れないけれど。
白んだ世界が、少しずつ目を覚ましていく。そんな時間。
どうしても足を運んでみたかったその場所に、足を引きずるように。
木靴が土を掻き、水たまりを掻き、拒絶する足を、一歩ずつ進める。
こんな事をしても、今更向かっても、仕方がないことはわかってる。
でも、どうしても、行かなければないけない義務感が、浮いては沈み、沈んでは浮いて。
街の境の門を通って、外壁の外へと、あまりないだろう時間を急ぐ。
今更行った所で、何の罪滅ぼしになるものでもない。それでも、一歩、また一歩。
遠目に、その場所が見えてくる。足を運んだことはあっただろうか。
ゆるゆると流れる河、側の小山が、赤茶けた地肌を晒している。
近寄ることに怖さを覚えて、木靴は辺りの水を全て吸ったかのようにずっしりと重くなっていた。
滑り落ちた山肌が、山間の河原に覆いかぶさっている。
一歩、足を踏み出さなければならないと、心が強く揺さぶられる。
不意に、肩を何かが掴み、そして傘を取り落とす。
「危ないです。行ってはいけません。」
誰かの声がする。外套がはだけて、その声が耳に直接、飛び込んでくる。
掴まれた肩が痛い。
重く、力をかけられて、一歩も前に進めない。
とっさに湧き上がる恐怖。背筋に走る悪寒。
ジリジリジリ
危ないと感じた。
しゃがみ込み、取り落とした傘を拾う。雨水を払って、広げる。
掴まれ、抑え込まれていた肩は、開放されていた。
「貴方が一人で歩いているのを見て、申し訳ないですが、心配で追ってきました。」
聞き覚えのある声だった。けれども聞き覚えのない声だった。
顔を見ずに、その声にそのまま背を向ける。
帰らなくてはいけない。そろそろ彼女がやってくるだろう時間のはずだ。
再び街の門へと向かうその足の後ろを、重ねるように、足音がする。
逃げるように、重い足を進める。そうすると、一時は雨音に消える足音。
けれども、また暫くすると、後ろから聞こえてくる音。
片手で、外套を深く被り直し、強く認識阻害を意識する。
街の門の側に、衛士が立っている。その側を意識して通り抜け、歩きながら後ろに聞き耳を立てる。
パタパタ、パタパタ。
傘に雨粒が当たる音しか聞こえなくなる。
こうした事で何が変わったわけでもない。罪悪感が軽くなった訳でもない。
それでも、どこか、言い訳はできた気がした。
しばらく歩いて、屋敷街が見えてくる。辺りはもうすっかり、朝と言える時間だと思う。
雨の中を、私の姿を見つけたらしい猫が、正面から走ってきて、「ようやく」側にやってくる。
そうして当たり前の様に、傘の下に入ってくる。
屋敷の表門の前には、衛士が立っている。
軽く会釈して、門を開けた時、丁度彼女が、玄関から傘を片手に出てくる所だった。
「導師様。一体どちらへ。」
傘を手放し、大きく足音を立てて駆け寄ってくる。
「少し、朝の空気を吸ってきてきただけですよ。」
ぐったりと疲れた心を隠して、飲み込むようにして、吐息のように言葉を吐き出す。
「直ぐ、温かい白湯と、朝食の支度を致します。こんなに濡れて。母に叱られます。」
顔を真っ青にした彼女に、手を引かれ、屋敷の玄関へと向かう。
彼女の手は冷たく、その唇は青ざめているように見える。
昨日の夜は姿を見せなかった。一体いつまで、庁舎の手伝いをしていたのだろう。
彼女はちゃんと寝ることができたのだろうか。
そんな心配が、それまでの心配事を上から覆いかぶさるように埋めていく。
玄関をくぐると、どこか、冷えた心が温まっていくような気がした。




