木椀の温もり
竈にかけられた大入りの鍋に、中庭の井戸から運んできた水を注ぎ入れる。
そうして種火を起こして火をかけると、額に大粒の汗が浮かんでいた。
湿気が煩わしいと感じるほどに、体温が上がっている。立ち止まっていて雨に身体を冷やしていた先刻までと、気の持ちように、少しずつ変化を感じていた。
手持ちに味噌玉はない。なにか無いかと、炊き場の戸棚を漁ってみる。導師様の名声とやらは、この際だから惜しまず使わせてもらおう。勝手に物色していた所で、私ではなく、得体の知れない導師様の指示という事にすればいいのだ。
手近な戸棚に茶葉を見つけたのは直ぐのことだった。乾燥したそれは、手に取るとほんのりと柑橘の香りがする。恐らく、接待用に用意されたものだろう。直ぐ側に、受け用の木椀も積まれている。粗い草布袋もここぞとばかりにその近くに発見をする。
念のため、草布の袋に鼻を近づける。燃える薪の匂いに混じって、僅かに染み付いた渋い草の香りがする。大雑把に茶葉をその中に放り込み、口紐を引いて煮えかけの鍋に放り込む。
竈の空きに大鍋を備え、水桶を手に炊き場を出ようとした時、ポンコツ役人が早足で炊き場に入ってきたのと、顔を合わせることになった。
「お茶を炊いています。炊いたお茶を、一杯口に含んでから、伝令や交代に戻るよう、衛士さんたちに伝えてください。」
部屋の暑さに脱いだ外套に話しながら気づく。認識阻害を意識し忘れたことも話し終えてから気づいた。
「伝えます。私も頂きますよ。」
いつもと変わらない淡々飄々(たんたんひょうひょう)とした顔で、声が返ってくる。その声をそのまま後ろに、水桶を持って炊き場の勝手口から中庭へと出る。
雨脚は再び霧雨へと戻っていた。このまま止んでくれればいい。ただ、濡れた身体で外を走り続ける衛士たちは、気化熱で今も体温を奪われている。避難者、或いは被災者も同様だろう。
群青色の空はすっかりと夜の闇を払いつつあった。焚かれていた篝火は先ほどまで降っていただろう粒の大きい雨に、火を消して煙を上げているだけだ。
井戸の釣瓶を落とし、水をすくい上げる。滑車がカラカラと回って、水の盛られた桶が顔を出す。腕の力に自信がある方ではない。半分ほどを持ってきた水桶に注ぎ、井戸の中に返す。
炊き場に戻ると、衛士の一人がポンコツとの話を終え、口に、鍋で炊かれているお茶を含んでいたところであった。
軽く会釈をし、無造作に放り投げられていた外套を手に取り、胸元で結び直す。そして認識阻害を意識する。木椀で両手を温めるようにしながら茶をすすっていた衛士は、意を決したように飲み干すと、立てかけていた長棒を手にとって走っていく。
「行かないんですか、貴方は。」
炊き場の入り口で立っているポンコツに声をかけながら、水を鍋に注ぐ。
「ここに立ち寄る慣例ができるまでは、もう暫くここに居るつもりです。」
成る程。仕事をサボるのにはいい口実かも知れない。だったらここに居座っている理由が無くなれば何処かへ去っていくだろうか。
「雨が止めば、中庭で煮炊きをし、衛士さんや避難者に振る舞う方が効率的です。」
こう言っておけば、外で雨の観測と、煮炊きの準備をするための器具を手配へと向かうだろう。
「そうですね。味噌玉を集めさせているとか。それに人手も。それらを見越しての事ですね。」
隣の竈から火を貰い、薪を焚いているのに話しかけられても、返答しようがない。こっちが何をしているのか見えてないのだろうか。
「お邪魔な様ですね。薪については気にせず使ってください。外で火を焚く手配についても折を見て。それと、こちらにも誰か職員を回すよう声をかけておきます。」
お払い箱の雰囲気を察したのか、ポンコツは立ち去る気配を見せる。それを横目に、赤い火を前に額の汗を拭う。
「導師様。感謝します。」
捨て台詞を残して去ったポンコツが居なくなった炊き場に、深めの息をつく。
水かさを減らした茶の湯鍋から、木椀に一杯盛る。碗に渋みと甘みの香りが漂う。
それを求めるままに口元へと運ぶ。煮出した量が多いのか、意識を覚醒させるような濃厚な成分を舌先に感じる。けれども、それが心地よく感じる。
湯煎していた草布の袋を取り出し、出涸らしの茶葉を空桶に放る。新たな茶葉をとりわけ、二つ目の鍋にそれを放り込む。
そうして木椀に残ったお茶を静かに啜っている所に、続けて衛士たちがやってくる。
「どうぞ。」
木椀に柄杓で掬った茶を受け取り、衛士たちは碗で両手を温める。
そうしたやり取りを繰り返している間に、増援の職員二人が隣で鍋を沸かし始める。炊き場の扱いに慣れている内省の職員なのか、その手際は私よりもずっといい。扱い終えた木椀の洗浄と煮沸、何処かにあった茶葉用の草布袋を追加で用意するなど、その作業に安定感があった。
「こちらの味噌玉を持ってくるように言われたのですが。」
入れ替わり立ち代わり足を運ぶ様になった衛士たちへの対応を続けていた所へ、声がかかる。
振り返るとそこには、見覚えのある顔が立っていた。記憶が間違っていなければ、確か、大通りの味噌もどきの店子の女将さんだったはずだ。
職員たちが顔を見合わせる。この対応は私がしなければならないらしい。
「導師様、から伺っています。その味噌で汁を炊き、避難者に振る舞いますので。」
自分が始めた事だと意を決し、外套を脱ぎ、声をかける。そうすると、女将さんは不安そうな顔を和らげ、安心した様に微笑んだ。




