寂しさに蓋をして
日も傾き、夜の帳が下りる前に、玄関にて彼女を見送る。
霧のような雨は、一向に止む気配を見せそうになかった。
彼女と摂った遅い昼食もあってか、未だ腹持ちがあり、何をするでもなく、軒の深い一室の縁側に腰掛け、薄暗くなりつつある庭を眺めながら夕涼む。
日中の蒸し暑さも、微風が流れ込んできたことで徐々に鳴りを潜め、雨の気化熱も手伝って、随分と過ごしやすくなってきていた。
雨季はまだ暫く続くはずだ。去年も、一昨年も、そうだったと記憶している。
雨季が明ければ乾季がやってくる。雨季と同じくらい乾季が続いて、その後、同じ長さほどの冬季がやってくる。そうして冬季が明けると一年と括られる。一年が何日なのか、ちゃんと数えたり聞いた事はないが、三百日から四百日と言った感じになるだろうか。
季節の緩衝期には人がたくさん動く。それと冬季と、次の雨季の間には穏やかな期間が数十日続く。
もう、そんなこの世界を、三年。三年も過ごしている。この街の滞在も合わせれば、そこから百日は更に過ぎているだろう。
すっかり、この街に馴染んでしまった自分がいる。この屋敷住まいにも慣れてしまっている。
仮住まいとは名ばかりだ。大きくて持て余しているが、うん、自分の家として扱っている。衣類が陰干しされ、台所で煮炊きし、お風呂にも浸かる。生活排水に気を使うこともない。
ふと気が緩んだ中に、哀愁がむくむくと育ち始める。
きっとそう、淡い期待が唐突に蘇ってしまい、そして案の定、報われなかったからだ。
今朝、掲示場で見かけたあの人は、多分、昨晩屋敷の前で見かけた人物だろう。「兄さん」のように見えた、そう思いこんでしまったあの人だ。
昨日の丁度これくらいの時間だった。彼がこの屋敷の門も前に立っていたのは。
でも別人だった。まるで違う顔の様に見えた。きっと、「この街で見かけない身なり」というそれだけで、そう錯覚させる程、心の空虚、飢えが大きくなっていたのだ。
その気持ちは、ほんの少し、誰かと触れ合ったぐらいでは埋まりはしない。
微風とともに吹き込む霧雨に濡れた頬を、ひとつ、雫が伝う。
ちょっとぐらい期待したっていいじゃないか。裏切られる事はわかっているのだから。でも裏切られるとわかっていて、期待してしまったことが許せないでいる。それが理不尽だと解っていても。
「兄さん」の幻覚を見せた自分の弱い心が、行き場もなく、自分の中でぐるぐると回っている。
気がつけばすっかり夜となっていた。軒の端を幾つもの水滴が地面に落ちていく。
バロッキーは寝室の箱の中に入っている。何時からだろう、肌身から離してしまったのは。
この屋敷に居住して、それでも暫くは手荷物に入っていたはずだ。
慣れようとしてしまったのだ。この街に、この世界に。諦めようとしてしまったのだ、元の世界を。けれどそんな単純なことではなかった。
街に慣れていく事と、日々に慣れていく事と、帰りたい気持ちは、それぞれ独立した感情で、互いに大きさを奪い合ったりしない。
そんな当たり前の事を、決して自分の中で変わる事のない「兄さんに会いたい」という気持ちに再び触れた事で、ついに隠す事ができずに気づいてしまったのだ。
頬を拭って、傍らの水筒の、麦茶もどきを口に流し込む。
そうしてから、立ち上がり、深呼吸をする。
あれはどんな歌詞だっただろうか。兄さんが見ていた、アニメのエンディングテーマ。
電源がもう入ることのないスマートフォン。あの中に、あの曲もあったはずだ。
夕方、真剣にそれを見ている兄さんの横で、幼い私はよく解らずそのアニメを見ていた。歌が流れる度に、すごく寂しげな曲だった事を薄っすらと覚えている。
「なんでこんな寂しそうな曲にするんだろう。」そう、兄さんの横でぼんやりと思っていた。そして、後になって夕方や日暮れの雰囲気がそう思わせたのだろうと、何度か思い返したことがあった。
アニメの内容はよくわかっていなかった。だから、あの曲の理由も解っていなかった。
何事も、自分の都合を中心に回っている訳じゃない。あのアニメを夕方に見ている人もいれば、真夜中や早朝に見ている人も居ただろう。「兄さんの隣りにいる」という、安心感のある時間に、寂しげなあの曲が流れる事が、幼い私には単に許せなかったのだ。
それぞれがそれぞれ、理由を持っている。だから私は、記憶の向こうの幼い私を嗜める。物語の登場人物にも感情があり、そういう歌を思い描いてしまう時があるのだ。
今歌ってみれば、その歌の意味も、登場人物の心情も、理解できるかもしれない。
そうは思うけれど、数ある様々な曲の、歌詞の記憶に埋もれて、思い出す事ができない。
「兄さんとの大切な思い出の一つ」にも関わらず、この世界では調べる事も出来ない。
深い息が漏れる。やめよう。きっともう忘れてしまったのだ。代わりに違う歌を思い浮かべる。
もう少し元気になれる曲を。今の自分を、元気づけられる、優しい歌を。
一つ一つ、フレーズを思い浮かべながら、それを口ずさみ確かめるように、自分のためにそれを歌う。




