同じ傘の下で
外套に雨水が跳ねる。水溜りの点在する地面の土を纏って、木靴が重い。
屋敷街を抜けて表通りに出る頃に、ぽつり、ぽつりと、雨が降り始める。
私は足を止め、番傘を開く。
人通りの疎らな早朝の通りにもそうして傘を開き始める人が増えてくる。
ふと、傘に遮られた視界の片隅に、街角の掲示板が目に入る。
屋根を設けられた掲示場の前に、この街の人達とは毛並みの異なる衣装を纏った人物が一人、私に背を向けるようにして立っている。
何故か、自然と足がそちらに向かう。外套に手をかけ、意識的に、認識阻害を強める。
私がその背に立った時、人物はじっとその掲示板を見つめている。その背格好から成人している男性であろうことは分かる。しかし力仕事をしているには少し細さを感じる。
熱心に何かを見ているその男性の後ろに私が立っていても、認識阻害の影響もあってか、気づく節はない。その視線の先が気になって、私も横に立って掲示板を覗き込む。
特に目新しい情報はない。その筈だ。この掲示板には折々、目を通している。昨日も確認したはずである。まして、ここに掲示されない情報も、あのポンコツが先達て私に聞かせることも多い。掲示が出される前に既に知っている事も少なくない。
男性はじっと掲示物を見ている。その視線が気になって、少し傘を傾け、その顔を覗き込む。
にぁあ。
彼の顔に目を向けようとしたその寸瞬を、気配を感じさせず後ろについて来ていたらしき、他称、私の使い魔が呼び止めるように声を上げる。
「猫?」
彼が声を発し、覗き込もうとしたその顔を逸らす。側にいる私に気づくこと無く、私の足元を少し離れた所で雨に濡れているトラ猫に、目を向けてしまった。傘の影に隠れ、その顔は解らないままだ。
「雨宿りかい?」
彼が声をかける。それは私ではなく、足元の猫に対してだろう。私はその顔を見ることを諦め、掲示物に再度目を向ける。やはり、目新しい記事はない。
ほんの少しだけ、認識阻害を弱める。
「何か、気になる掲示物がありましたか?」
言葉が勝手に口から発されていた。
にゃあ。
彼は私の質問に気づくこと無く、再び声を発した猫に視線を向けている。
「何か、気になる掲示物がありましたか?」
改めて、慎重にそれを言い直す。
「他所からこの街に、昨日来たばかりなのですが、不思議な掲示物が多いなと。」
そうかもしれない。急激に薄れていく彼への興味の中で、ぼんやりとその言葉の意味と理由を考える。彼の視線の先にあっただろうものが、それらしきものである事に行き当たった。
「少し前にこの街であった嫌な事件が、まだ尾を引いているのでしょうね。」
少しだけ間をおいて、無難な言葉を返す。先方の興味は、私や掲示物ではなく、視線の先の猫に向けられている気配である。
「嫌な事件、ですか。噂話程度には聞いていますが。」
視線を猫から掲示物へと戻し、彼はそう答える。
「事件の事ではなく、私はこの、鍼灸院開設の知らせや、大通りから離れた地区での露天屋台の助成制度等が気になりますね。こうした街に住む人達に向けられた情報は、外では中々手に入りませんから。」
答え合わせとも言える返答が返ってくる。
それ以上言葉を交わす必要もなく、私は彼に静かに背を向ける。数歩離れ、振り返ること無く、外套を深く被り直し、認識阻害を強める。
掲示場の前にその男性を残しその場を離れていくと、早歩きで追ってきたであろう猫が静かに傘の中に入って、足元を側に歩き出す。
どうも、昨日の夜の事をまだ引きずっているらしい。けれど、その思い悩みは、一応の解決を見た気がした。自分の中で、これから向かう役所での、面倒な仕事に対して向かい合う気持ちのようなものが整っていくのが理解できる。
木靴の重みも、気づけばそんなに感じなくなっていた。水溜りを超える度、跳ねる泥水が外套の裾を濡らすが、この雨季では珍しい事ではない。そんな当たり前の事が気持ちを波立たせるほど、心に余裕がなかったのかもしれない。
昔、小学校に通っている頃、新しい傘と長靴を履いて梅雨空を歩いた登下校をふと思い出す。
普段、兄さんは私が登校するよりも早く家を出ていたが、ある一日、寝坊をしたのか、私の登校時間と同じ頃に家を出た日があった。その日もこんなシトシトと雨が降っていて、傘をさす必要があった。
兄さんの一回り大きい傘の下を、その足に寄り添うようにして学校まで歩いたのをよく覚えている。折り畳んだままの傘を片手に兄さんの少し抑え気味の歩調を感じながら、その顔を見ながら、あまり好きではなかった学校へと向かった日の事を。
小学校の校門の前で、兄さんは優しく笑って私に手を振ると、私がちゃんと校舎へ向かうのを確認して、それから雨の中を走っていった。
もう一度振り返って、そんな後ろ姿を名残惜しむ様に見えなくなるまで眺めていたのを、兄さんは気づかず走っていったのだ。それは私だけが知ってる小さな秘密。
「お前の方が、よっぽど兄さんらしいね。」
庁舎の前で、寄り添う猫の顔を覗き込んで、無意識にそんな言葉が漏れた。




