ほんの少しの気遣い
「朝。」
鳥の声が聞こえ、そう間もなく、戸の隙間から空が白んでいくのが見える。
どうやら、いつの間にか眠っていてしまったらしい。ただいつもの起床時間には少し早い。まだ彼女も来ていないはずだ。
夕餉の鍋を空けてしまったのは覚えている。湯のぼせと、少しの蒸し暑さに、微睡みながら寝室に入ったのまでは記憶にある。身体を起こすと、思いの外、まだ身が重い。
台所には、昨晩空けたままの鍋がそのままになっていた。簓と鍋と手にとって、庭の井戸へと足を向ける。庭への勝手口を開けると、雨模様の踏み留まりの中、地面の方々に水たまりができている。
そんな中を勤勉に大きな水蜘蛛もどきが数匹飛び跳ねている。
恐らく弊社職員に違いがない。広い庭に手足を伸ばしていて、気楽そうな事である。
業務外の私生活にまで、私は口を出すつもりはない。
勿論、言葉など通じるわけもないだろうが、害虫として人々の生活に支障をきたしているのならば、私はバグマスターとしての強制執行権を行使するだろう。
益虫として過ごすのならば好きにすればいい。
庭に備えの井戸は、共同の井戸よりも小さめだが水が綺麗である。釣瓶を降ろした感じでは、より深くまで掘られている。この時期の湿気と気温に、ひんやりとした地下水は心地よい。
滑車から拾い上げた桶の中の水を空鍋に注ぎ、簓で乾いた煮汁を削ぎ落としていく。
額に汗とも湿気とも言えないものがにじむ。
薄い部屋着のまま外に出たのを少し後悔しながら、その袖で拭い、汚れた鍋の水を勢いよく放って、桶から真綺麗な水を注ぎ、その鍋を抱え、屋敷の勝手口へと戻る。
机に放り投げられたまま片付けられることのなかった紙袋を覗き込む。
丸干しの小魚はすっかり無くなっていた。
あと一つ、あと一つと口に運んでいた昨夜の出来事を覚えている。
昨晩と同じ様に、蓄えの棚から干し豆の袋を取り出し、火を炊く前の鍋に一掴み放り込む。
消し炭のようになった薪の余りと、新しいものを幾らか差し込み、釜に火をかける。
火打ち石でこすった指を舐めながら、箸で味噌玉を千切り、いくらかを鍋に入れる。
そうして煮立ち始めた鍋の上澄みを、昨晩のまま洗っていない木椀で掬い、白湯代わりに乾いた口へと運ぶ。口を慰め、木匙で鍋をかき混ぜつつ、袖で額の汗を拭う。
「今日は、洗濯しなきゃ。」
消し炭に振れた時に拾ったであろう煤に、袖はすっかり汚れていた。
昨日の今日で、仕事はそれほど長引かないだろう。早く帰れる目算は立っている。
これでこの湿気や雨がなければ、少し長引いた所で天日に干して間に合うだろうが、屋内の湿気のない場所で干す必要があるこの時期は洗濯には厄介な時期である。
ただ、昨年のこの時期に比べずっと状況は良い。
この持て余した屋敷の中で、干す場所には困らない。狭い下宿屋の一室で、日銭を減らして買い入れた草生地や紙を内側に仕込んで、工夫と手間をかけた及第点を試行錯誤する必要はないのだから。
玄関口から物音が聞こえ、それから一寸置き、慌てて駆けるように足音が台所へ近づいてくる。
「導師様、遅くなりまして申し訳ありません。」
彼女は飛び込んでくるなり、額の汗も拭わず、私に挨拶をする。
「こちらは私が代わりますので、お着替えをなさってください。」
そう言って釜と私の間に割って入り、身体を押す。
台所を追い出され玄関に目をやると、慌てていたのか昨晩持たせた番傘が倒れていた。それを立てかけ直し、居室へと戻り、部屋着を脱ぎ、身支度を整える。
深く貯めた息が漏れたのは、味噌の煮汁に口をつけ、一口目を喉に流し込んだ後の事であった。
木椀の中には、入れた覚えのない少しばかりの食用らしき野草が混じっている。
昨晩と同じ味噌汁もどきのはずなのに、風味がまた変わってくる。こうした手間に、気を使ってくれているのを感じる。
「ありがとう。美味しいです。」
そう述べると、彼女は表情を崩して恥ずかしそうにしている。
「母が今朝持たせてくれたのです。丁度良い所でした。何よりです。」
彼女の母の予後が順調そうで、その報告にまた少し、木椀の中の味が変わった様な気がした。
「今日は少し早めに戻れるかも知れません。帰って洗濯を済ませたら、この間の続きを少ししましょうか。」
先程、着替えながら思案していた提案に、彼女は喜びの表情を浮かべる。
彼女がこうして、家事の手伝いと緩めの監視をしてくれる様になって、会話の機会が増え始めた頃、少しずつ計算の仕方や、幾つかの文字手習いをする様になった。
決して飲み込みが早いというわけではない。私も人に何かを教えるのは上手な方ではない。
けれども、互いに手探りをしながら、皮肉な事に、「ポンコツの求めた事の一つ」に、手を出してしまっている。
元々はこの屋敷、そうした生活知識の指導と普及に用いられる予定と聞いたのを思い出す。
「導師様が教えて下さる事は、新しい事ばかりで、楽しいです。」
「では、行ってきます。」
そうして頬を緩める彼女を背に、番傘を手に、雨模様の中へと屋敷の玄関を出た。




