街の導師様政策
「貴女も帰る時は、傘を使ってくださいね。濡れた身体で体調を崩さないように。」
屋敷の玄関に立てかけてある番傘を指差す。
この街に半定住を決め、この屋敷に住む事になって、雨季に必要になると購入を決めて調達をしたものである。
「いってらっしゃいませ、導師様。」
私は二本ある傘のうち、一本を手に取り、見送りを背に雨中へと歩を進める。
木靴の先に水溜まりの泥が跳ねる。
玄関を出て数歩をしない内に、数羽と言わない鳥たちがこの雨の中を飛んでいく。
木戸の門を開き、屋敷を出るとさして広くもない通りに開店準備をしている屋根付き屋台の姿が幾つも見える。
この場所で、街から補助を受けて出店をしている店主たちだ。
ポンコツが企て、何の間違いか領主に依って認可された、この狭い屋敷街の歩道の局地的な「屋台街」政策は、雨季が深まる中に至っても撤回されることがなく、狭い通りで座客に応えられるよう、まるで日本のおでんの屋台の様に、コンパクトに纏まった洗練さすら出始めている。
そもそもだ。
ここに出店している店主たちは、どう考えてもその筋の玄人ばかりだった。
味も良い品を出すし、荒く無計画な商売をしているような節もない。わざわざここで出店をしなくても、大通りで手堅く商利を得られるような、言うなら屋台の名店の様な選りすぐりばかりだ。
まさかとは思うが、公募の際に厳正な審査でも行われたような徹底ぶりであり、その店主たちを追いかけてか、客足もやってくる。
屋敷街にはほぼ、屋敷内にかまどを持ち自炊可能な、それこそ給仕持ちの家主ばかりだと思うのだが、最近ではそう言った身なりのいい客すらも気に入った店を見つけてか、家と違った味を求めて客として入っている様子すらもあり、更には調理品を提供する屋台だけでなく、そこそこいい品質の味噌もどきや食材を売る店も出始める始末。
商魂たくましい店主たちと街の役人の強引な政策が、本当に新地開拓に至ってしまった可能性すらある。
屋台への思慮に傾いた歩みの最中に、いつしか傘の中に一匹の猫が潜り込んで横を歩いている。
勤勉なことである。
コチラに移り住んで翌朝にはこの周辺に姿を確認している。
弊社職員と極めて懇意であると状況証拠が揃っているこの猫は、最近では距離を取ることも無くなり、私の姿を見かけると、使い魔と揶揄されるそのままにむしろ率先してその様に振る舞っている。
相変わらず、人語を話すような摩訶不思議現象は起こす様子こそ無いものの、既成事実化された使い魔評を立派な役職か何かだと思いこんでいるのだろうか。
身寄りなし死体の処理係バグマスターの使い魔。
言ってしまえば汚れ仕事の片棒を担いでいると言われているのだが。
無理矢理に、「嘱託役人」や「安定職」といえば、そこに否定する言はないのだが。
霧のような雨水が番傘からこぼれ、ポタポタと水滴を落とす。
認識阻害を展開しているが、今となってはこの街でどれだけの効果があるか、正直な所わからない。
街中に見張られている。街中がどこもかしこも私の噂で持ちきりになっている。
屋台の客の与太話には、やれ「導師様がお近くに」だの、やれ「この近くに住んでおられる導師様が」だの。
雨季の長雨が始まる前は、朝とも慣れば怪しげな体操を徒党を組んで実践していた集団こそは、この雨中では鳴りを潜めたものの、鍼治療だの、灸の看板を掲げた店は大通りに着実に増え続けている。
それらの客足も途絶えることがない一方で、足湯やサウナの様な炊き湯屋も、「導師様が屋敷に風呂を作らせた」等という噂が駆け巡った事により、開店から閉店まで客足が途絶えることがないそうである。
そもそも、接頭区に「導師様が」という言葉がつけば一種の箔となっており、その導師様が「私の事を指している」というのが納得がいかない。
あのポンコツが画策し、何故か領主が追認する「導師様政策」は、このアンジュという街をどういう方向に持っていきたいのか。
単に、一連の事件に依って起こった流通的問題から、ヤケになってキワモノ都市を目指し始めたというのならば、それは結構な事、勝手にしてくれといった話で済むのだが。
私を巻き込んで、私の名前でそれを実践し、よく分からない成功を収めつつあるというのが、本当に迷惑な話である。
私は物静かに暮らしたいのだ。目立たず。
で、あるからこそ認識阻害を常時展開し、私という存在を希薄化させ、何時居なくなっても、跡を濁さないようにしているというのに。
「はぁ。」
溜息がこぼれる。その声を聞きつけてか、猫がにゃあと声を上げる。
だからといって、あの柑橘の香りの石鹸や、ゆず味噌のような味噌もどきが世間にちゃんと評価されることまでは否定をしない。ああいった良品が手に入らない状況は望まない。
鍼治療や灸治療も、その土壌ための土壌がこの地域にあったことは事実だろう。
最近、郊外の農作地に山の柑橘樹木が何本も降ろされ、植樹されただの、挿し木されただの、その規模は明らかに大きくなっている。
きっとそのうち、柑橘の香りのする楊枝だの、木鍼だのも出回り始めるだろう。
新しい文化が育つ事に立ち会うの自体は異論はないのだ。
「導師様の」が接頭句に付きさえしなければ。




