絵図と現実
「朝。」
ため息が漏れる。また朝が来てしまった。
夜は、安息は、どうして終わってしまうのだろう。
思えば、あの日、もう全てお膳立てが整っていたのだ。毎朝、頭を抱えている。
ああ、もう!どうしてこうなった。どうしてこうなった。どうしてこうなった。
「導師様!お目覚めでいらっしゃいますか!」
決まった時間。もうここ毎日、こうして督促がやってくる。
返事をしなくても、彼は毎日やってきては、水を汲み、火を炊き始める。
頼んでいないのに勝手に!
思えば大量の遺体を処理したあの日の翌日、遅れていた例の日がやってきて最悪の気分だったあの朝。
仕事を休むなんて事を考えた私を、出来ることなら呼び止めて一発殴りたい。
「導師様。導師様。」
戸を控えめに叩く音。もう少し、もう少しだけ一人にさせて欲しい。
あのポンコツがすんなり休ませてくれるなんてコトがそもそも怪しかったのだ。
最初は「困ります」なんて言っていたので、こちらも乗せられて「ちゃんと説明をしてしまった」。
すると、気まずそうに慌てて手のひらを返して、顔色を伺う様に二日の休みをくれた。
そこまでいい。
あのポンコツ、なぜ私の下宿屋を「彼」に教えたりなどしたのだ。
それから毎日、彼は律儀にこの時間にやってきては、朝の支度を整えていく。
ちょっと有り難いなどと思ってしまったのは辛かった時だけで、後はひたすらに、その善意が重い。
一度など、帰り着いた所へやってきて、夕の支度まで始めようとしたので、丁重にお断りをしてお引取り願った。
だって、紙袋一杯に屋台の饅頭を買って帰ったのだから。
二個渡して帰ってもらった。
判った。ちゃんと言おう。
もう大丈夫だと。気にすることはないのだと。
お世話周りなんて求めてない。
せめて朝は、静かに、穏やかに過ごしていたいのだ。
「あ、おはようございます。導師様。」
覚悟を決めて、認識阻害をかけて、戸を開けると、そこには満面の笑顔があった。
言い出しづらい。その笑顔が重い。
窯では白湯ではなく、暖かそうな香り漂う味噌汁もどきが出来上がりつつある。
濃いめの塩味ある汁物も恋しくなる。
ただ、作ってくれているのに、味付けに文句を言う事は流石に気が引ける。
「水汲み、湯炊きなど自分でできますので、気にしなくてもいいのですよー。」
「そうは参りません。庁舎の皆様や母に、くれぐれもと、しっかり頼まれておりますので。」
今日もダメそうだ。これは明日も来る気配で間違いない。
この子は気づいているのだろうか。
庁舎の職員たちは私が逃げないように、君に見張らせているだけだ。
あのポンコツがそう仕組んでいるのだ。
例え私が夜の内に逃げても、この子が毎日くれば半日も経たない内に気づいてしまう。
庁舎から捜索の馬が走り、検問でも敷かれれば、認識阻害をかけた所で、土地勘のない私は早々に御用となるだろう。
青年の母親は、あれから精力的に回復を続けている。
元々、家を支えるために内職などもしていたそうで、親子二人となった今も、逞しく生きている。
少しでもご恩を返せるように、と毎日言いつけて、彼を送り出しているそうだ。
早く仕事が上がった日に、一度、街中で彼女を見かけている。
意識して陽の下で過ごすように、家事の時間の合間を縫っては散歩などを頻繁にしているらしい。
彼女に限らず、街では空前の日光浴、健康志向ブームが起こっている。
日中、閉じている戸も無ければ、街中に椅子を設置し、座りながら水を飲んでいる人もいる。
救護用に臨時に開放されたままの庁舎の広場で、敢えて昼寝をしている人も少なくない。
あの場で昏睡状態にあった人たちの数人は、残念ながら帰らぬ人になった。
それは慢性疾患や、身体の不調をそもそも抱えていた人たちらしく、体力が持たなかったのだ。
しかし、その他多くは、身を起こし、汁をすすり、毒に打ち勝って緩やかに回復していった。
職場に復帰したという話すらも盛り場の噂話に耳にする。
そこまではいいのだ。
ここまでの騒動に発展したのは、あの日の領主が出した触れ書きが原因だ。
私の事を、まるで偉大な賢者かのごとく美化して書き連ね、治療法をその教えとして公表したのだ。
あの草案は、きっとポンコツが書いたに違いない。
今も、掲示板の目立つ場所に、健康法として一番目立つ場所に貼り付けられている。
針治療やお灸の様な、焦点の当たりづらかった医療にも、火が付いたように街中が飛びついている。
そもそも、それらに高いリラクゼーション効果があるのは間違いないのだ。
柑橘薬茶や香草などが下地にある土地に、温熱治療やお香の文化が育まれるのも自然なことだろう。
私もお風呂上がりに、自室でお香ぐらいは楽しんでいたかも知れない。
『私が火付け役でさえなければ』。
街中いたる所で『導師様に救われた』という接頭句がつく。
この青年に限らず、である。
「では母の看病もありますので、これで。また明日、参ります。失礼致します、導師様。」
汁をすする私を残して、青年は去っていく。
朝からこれでは、気が休まらない。
街に出ては、何処かの声で、姿で気が休まらない。
今日こそは、あのポンコツに文句か小言の一つも言わねばならない。
私はそう固く決意する。




