中
「なんだ、久々に休みが合ったのに、シケた面していると思ったら、そんな事情かぁ!」
ヤツは私の訴えに、朗らかにそう言った。先にヤツが話した、結婚式に関しての彼女との諍いの方が、古びた気動車より重大だと思っていることは明らかだ。
「……古いから仕方ないんだけどね」
「新興国の……どこだったっけ? ま、その国の人らも喜ぶだろ。こっちは最新型に代わるし、win-winの関係、ってことだな」
「アンタならそう言うと思ってたよ」
ヤツの思考は常に未来に向かっている。――― ぶれずに、まっすぐに。
過去ばかり振り返り、「もしあの時ああならば、私はもっと違った人間でいられたろうか」 と、後悔することで成り立っている私とは、違うのだ。
私には、古びた相棒と、代わり映えのしない日々を淡々と続ける以上の未来を想像することも、望むこともできないというのに。
――― そして、そんな日常が、近い将来無くなることが決まった今は、ただ、中ぶらりんな気持ちを持てあましている、だけだ。
新しい未来を思い描くことなどできず。さりとて、相棒を守ろうとするには、もう、諦めることを知りすぎていて。―――
「まぁ、飲め!」
ヤツはビールをぐいっとあおり、私のコップにビールを注いだ。
「ああっ、溢れちゃう!」
「気持ち悪いキンキン声、出すなや」
ギリギリで上手に泡を盛りつけられたグラスを持って、ヤツのと軽く触れあわせる。
……これだけでも、私が少しドキドキしてしまうことなど、ヤツは知りもしないのだ。言う気も、ない。
たまに休みが合えば馴染みのガード下で飲む友達。私たちの関係は、それでいいのだ。それが、ちょうど。
世間的にも、おそらくはヤツ自身も。
勤務明けでオシャレしてこれなかったことを、少しばかり残念に思う。
そして、相棒に申し訳なく思う。
――― 彼の払い下げが決まった直後でさえ、私はヤツと会えば、楽しくなる。こんなにも、はしゃげてしまうのだ。
いつもは大体、刺身だけ頼んでボチボチと飲むのだが、今日は寿司を頼んだ。
ヤツの婚約祝いという名目で、私のおごりだ。
「うっわー、煮穴子、柔らかいぃ♡ おっぱいみたい♡」
「いやそれより柔らかいだろ」
「触ったことないから知らねー♪」
「堂々と言うなよ……」
「えっへへへ」
ふたりでビールをグイグイと飲み、頼んだ寿司をボチボチとつまむ。そういえば、ヤツと穴子を食べるのは、なにげに初めてじゃないか?
「この焼きアナゴの香ばしい香りと、とろける舌触り…… こんなの初体験♡」
「うそつけ」
「へへへ」
私はまた、笑ってごまかす。
(君と食べるのは、初めて) それは、私にはすごいことだが、ヤツにとってはどうでも良いこと、やがては忘れてしまうことに違いない。
…… 父が、去っていったように。相棒が、去っていくように。
私がどんなに追いかけても、求めても、皆、いずれは行ってしまう。
想い出だけを残して。私のことは、忘れて。
それも、仕方がないことなのだろう。
――― 誰の中にも、私はいない。私自身の中でさえ、私は中心ではありえない。私の中心は、父であり、相棒であり、ヤツなのだから。
自身に価値など無いことを、易々と受け入れる…… 私は、そんな人間なのだから。
仕方ないのだ、と、私は自分に言い聞かせ、ビールをあおった。
すでに、2本目。
とろろを載せたウニとイカの軍艦を口に放り込む。
「んまいぃぃぃっ! この、ウニとイカがまぐわって、とろとろの山芋が、上のお口を満たすこの感じ……!」
エロめの食レポばかり披露する私に対し、彼はボチボチと日本や世界の経済のことを語りだした。
いつも通りの、流れである。
「……この度の不況で、政府の予備資金はあっという間に蒸発、雇用は底をついている。なのに、政府は益体もない金のバラ撒きを続ける……そんなのは単なる人気とりじゃないか」
「……うん、そうだな……」
ヤツに向かって適当に相づちを打ちながら、私はぼんやりと考える。
……どんなに政治や経済について語ったところで、大きな流れは変えようがないのに、と。
私たちはただ、流されるままに泳ぐ魚。流れに乗れなくなった時には、消えてなくなるしかない運命なのだ。父のように。相棒のように。
そして、ヤツがやたらと頼りにしている 『政府』 とやらも、もとはといえば小さな魚の寄り集まりに過ぎないのではないか。
大きく見えるが、この不況をなんとかできるような、劇的な頭脳も実行力も持ち合わせてはいないだろう、きっと。
けれども、ヤツはまだ、夢を見られているのだ。
自分自身にも、政府にも、もしかしたら、何もかもを押し流すしかしない残酷で大きな流れにさえも……
まだまだ、何かできるに違いない、と。
(ああ、いいな)
ヤツの人生の中心が、常にヤツ自身であることに。その、まっすぐで素直な野心に。
私は、いつも、感嘆する…… 何年も前、新人だった頃に出会って以来、ずっと。
――― 羨ましい。眩しい。憧れる。
――― 感嘆は、いつの間にか、恋へと変わっていた。
ヤツは相変わらず、饒舌だ。
「真に必要なのは、新たな需要の喚起と雇用の創出だろう!? いつまでも金融政策だけで誤魔化せると、政府は本気で思っているのか!?」
「……さぁなぁ……」
それにしても、どうしてヤツは、私のような人間を相手にしているのだろう。
――― ふと生まれた疑問と、ヤツに明かすわけにはいかない想いを、私は3本目のビールでゆっくりと流し込んでいった。




