上
「お前とも、もうすぐお別れだなんてな……」
私はそっと、古ぼけた計器盤を撫でた。
やや黄ばんだ速度計と圧力計。黒い螺旋コードでつながれた、連絡装置。にぶい光沢を放つ木のハンドルと、鮮やかで、でも端の方が少し黒ずんだ赤や緑、黄色のボタン。
いつも、きれいに磨き上げてはいるが、時代を感じさせる私の職場。そして、かけがえのないパートナー、虎狸電気鉄道G51型気動車。
――― 戦後早めから動き出し、毎日のように、この田舎の人びとを最寄りの都会に運び、連れ帰ってきた彼は……
あと2ヵ月ほどで、新興国にスクラップ並の価格で売り払われる。
上からそう通達があったのは、今朝のことだった。
仕方のないことなのだ、と自分に言い聞かせる。……少なくともそれは、まだ今日じゃない。
そして、感傷に浸る間もなく、発車の時刻は迫っている。
「まもなく発車いたします。お乗りのお客様は……」
車内アナウンスを済ませてマイクを掛け、計器盤に軽く触れる。
「今日もよろしく頼むよ、相棒」
呟いて、ブレーキを解除し、運転ハンドルを倒す。
私たちはずっと、ふたりでお客様を乗せて走ってきた。安全に、時間通りに。お客様の毎日が何事もなく始まり、普段通りに終わるように。
毎日、毎日。
……それは、まだ、終わった訳じゃない。
モーターの大きな回転音とともに、ワンボックスしかない車両全体が震える。
駅のホームに流れる、昔懐かしいメロディに送られて、私たちは、ガタン、と動きだした。
■◇□◇□◇□≡≡≡⊃
彼との想い出が始まったのは、私が5歳の時だった。
その頃、東京に住んでいた私たち家族が、このような片田舎に何をしに来たのか…… それはいまいち、覚えていない。
脳裏を次々とよぎるあいまいな景色の中、はっきりと残っているのは、父の誇らしげな声、ただそれだけだ。
「これはお父さんが、初めて設計に関わった気動車なんだよ」
私は確か、その時父に 「お父さんが作ったの?」 と質問したのだと思う。
おそらく父は 「当たらずとも遠からず、ってとこかな」 と、男性にしては細い手で私の頭を撫でた筈だ。……設計士だった父の手は、力強いというよりは、繊細だった気がする。……
そして、父は、幼い私とも大人と同じ言葉で話す人だったから、私はしばしばその意味がわからなかった。
その時も、そうだったのだと思う。
だが、その時の父の声は私の胸にも誇りを宿した。私は父に言ったのだ。
「大きくなったら、この電車を運転する人になるよ」
「気動車だよ」
父は嬉しそうな顔をした…… おぼろげな記憶の中で、それだけは確かだったと、信じていたい。
次の年の夏、父は亡くなり、それは、私が父と交わした最初で最後の約束となった。
■◇□◇□◇□≡≡≡⊃
田舎の鉄道の最終は、午後8時半。
「間もなく到着します」
車内アナウンスをして、ブレーキハンドルを回し、慎重に減速していく。
相棒の車体からは、減速の度、ゴムの焼けるようなニオイが漂う。
そうだ、彼は、もう古いのだ。
彼と同年代の気動車の多くは、すでに、スクラップにされたり、鉄道博物館に展示されたりしている。
(本当に解体されるよりは……幸せ、か)
電車を車庫に納め、業務報告を提出して、仮眠をとる。
明日の朝、相棒ともうひとっ走りしたら、その後は休暇だ。
昼にはヤツと、飲みに行く約束をしている。結婚式の招待状のお礼と、お祝いを言ってやらなければならないだろう。
……ヤツが結婚したら、飲みに行ったりはできないだろうなぁ、と、ふと思った。
嫉妬も失望も、これまでの人生で散々しなれていて、いまや何も感じない。
―――それに、明日はまだ、普通の、ヤツと会える特別に嬉しい休暇なのだ。
ヤツの顔を思い浮かべることで、私は頭から暗い気持ちをなんとか追い払い、眠りについた。
仮眠室での眠りはいつも浅く、何度も目を覚ます。
その度に私は、夢が夢でしかないことを思い知らされながら、またその続きを見ようと目を閉じる。……夢の中ではまだ、私の、平凡で単調だが愛すべき日々が、ずっと続いていた。