お花のスープ
『ただ今、最悪のテンションです』
そう題したエッセイでも書きたい気分だ。
スマホが壊れた。サイフを落とした。警察に届け出た帰りに、ポケットに入っていた小銭を発見! 自販機であったかいコーンスープのボタンを押したら、冷えきったソーダが落ちてきた。
捨てようにも捨てられない、子どもの時からの貧乏性。真冬の夜道でかじかみながら冷たいソーダを飲む苦痛! 俺はもうほとんど泣きそうになりながら、顔なじみのお姉さんが住むアパートのチャイムを押したのだった。
『あらいらっしゃい、秋人くん! カギは開いてるわよ、中に入ってらっしゃいな!』
インターフォンごしで少しくぐもった綺麗な声が、俺の名を気安く呼んでさそってくる。中に入るとあったかい空気がこごえた体にありがたい。
「秋人くん、いらっしゃい! あらあら、どうしてソーダなんか持ってるの? 外はずいぶん寒いでしょうに」
「それが聞いてよ、サラ姉さん! ……ってか玄関カギくらいかけようよ、来たのが俺だからいいけどさあ。無用心だよ?」
サラ姉さんはふわふわの金髪を少し揺らして、熱のない声で微笑って言った。
「大丈夫よ、この部屋にはあなた以外は来ないから」
俺はうなずくことも出来ず、「ああ」とだけあいまいにつぶやいた。
サラ姉さんはもともとこの国のひとじゃないから、ここらじゃ異端者あつかいなのだ。少し見た目が違うだけで、本当は何も変わらないのに!
そう考えた俺の思いが伝わったのか、姉さんは声なしで痛痒そうな笑みを浮かべた。それからふっと気を取り直したように笑って、水色のエプロンを身につけた。
「秋人くん、だいぶこごえているようね。ちょっと待ってて。いつものスープを作ったげるわ」
サラ姉さんはちゃっちゃと野菜をあつらえて、手際よく包丁で切りだした。
赤く育ったミニトマト、黄色い花のアスパラ菜、大きな花つきのズッキーニ……。外は雪が降りそうなほど寒いのに、ここの野菜に季節感はゼロなのだ。
姉さんはくるっとこちらにふり向いて、緑の瞳で微笑んだ。
「かわり映えしない野菜でごめんね。でもじゃが芋とかにんじんは私は育てられないし、根菜は煮えるのに時間がかかるし……」
「あ、いいいい、全然いい」
俺はわざと少しそっけなく答えを返す。本当はいつもの姉さんのスープが恋しくて、この部屋のチャイムを鳴らしたくせに。
「スープのベース、ささみでとっておいたダシにお塩で良いかしら?」
「全然いい」
本当は使うたびに違和感のある、今風の言葉をくりかえす。姉さんの前では少しカッコをつけたいのだ。出逢ったばかりの昔と違って、今は「お年ごろ」だしな。
でもそんな俺の考えも彼女はぜんぶお見通しで、俺が何をしでかしたって年上の余裕で受けとめて、いつものように笑っていてくれるんだろう。
そうだよな、年上だしな。姉さんにしたらやっと二十歳の俺なんか、ケツの青い坊やだろうな。
「それで、いったい何があったの?」
おお、忘れてた。姉さんのことばかり考えて、今までのハプニングがまるまる脳裏からふっ飛んでいた。
「それが聞いてよ、サラ姉さん! 実はさ……!」
それからは止まらないグチ大会! サラ姉さんは「まあまあ」「そうなの」「大変ねえ」と柔らかく優しくあいづちをうちながら、切りたての野菜をささみのダシに入れていく。
あいまに淹れてもらったブランデー入りの紅茶を飲んで、俺はようやく一息ついた。
やがてダシはふつふつ煮えはじめ、ことことと野菜の煮えるいいにおいが、ふんわりと部屋の空気に満ちてきた。
ああ、いい香りだ。あったかい。このにおいが好きで俺は、いったい今まで何度この部屋に通ったことか。
サラ姉さんはゆったりと向かい合わせに座って、雑誌なんかめくっている。「もうそろそろ煮えたかしら」と言いたげに、ときおりズッキーニをつまんで味見をしたりして。
「強敵のズッキーニ、もう煮えた?」
「うん、もうちょっとかかるかしら。いつもよりは薄めにスライスしたんだけどね」
コンロからまた戻ってきて、サラ姉さんは向かい合わせにまた座る。雑誌をめくりかけた手を止めて、俺の顔をしみじみ見つめた。
「……なに?」
「ううん、出逢ったころと比べて、ずいぶん大きくなったと思ってね」
年寄りじみた言葉を吐いて、姉さんは大人びた微笑を浮かべる。俺は何と返していいのか分からずに、黙って肩をすくめてみせた。
出逢ったのはもう十五年前になる。
親に捨てられたことにも気づいていない、愚かで幼かった当時の俺。「施設」を抜け出して両親につけられたアザがまだ消えない体で、両親を探し回っていたばかな俺。
そんな俺に、サラ姉さんが声をかけてくれたのだ。姉さんは舌足らずな俺の話を黙って聞いて、「とりあえずはあったかいものを食べましょうか」と自分の部屋に招いてくれた。
姉さんは金髪で緑の瞳で、ほかにも変わったところがあった。けれども俺は彼女の優しさに直感で気がついていたみたいで、怖いとは少しも思わなかった。
そうして姉さんが作ってくれたのが、ささみでダシをとった野菜とお花のスープだった。その上しあげに溶き卵までふわふわ黄色く浮いていた。
そのスープをひと口すっとすすったとたん、それまでに味わったことのない優しい味が舌にじんわり染みわたった。小さく切った野菜もほろほろとろけていくようで、ふわふわの卵は舌を包みこむように柔らかくて……。まるきり夢のような心地で俺はスープを飲みほした。
けっきょく俺は鍋の底が見えるまで、何度もスープをおかわりした。もう一滴も飲めなくなったおなかの中から、あったかい灯がともったようだった。
その時、俺は泣いたのだ。
気づいてしまったのだ。こんな優しいスープなんて、両親は一回も作ってくれやしなかった。エサと称して投げられるのは、消費期限の切れたコンビニ弁当、酸っぱいにおいのするおにぎり、野菜の水気を吸ってべろべろになったサンドイッチ。
分かってしまった。
若すぎて馬鹿すぎた俺の両親は、俺のことをかけらも愛していなかったこと。「まちがい」で産まれてしまった俺のことを、芯から嫌っていたことを。
しゃくりあげて泣く俺を抱きしめ、サラ姉さんは「大丈夫」「だいじょうぶ」と何度もくり返してくれた。
「美味しいものが『美味しい』って思えるうちは、だいじょうぶ」
その言葉に甘く背中をおされた俺は、自分の足で施設へ戻った。
もう良い。もういいんだ、両親からの愛情は。得られないものを求めて嘆くより、新しく誰かを愛して、いつか誰かに愛されて、そうして生きていけば良い。
そう誓った俺のことを、サラ姉さんはいつも見守っていてくれた。異邦者の姉さんはいつだってひとりだったけど、そんな自分の境遇を呪うことはしなかった。
たまたまこの国に迷いこんだ姉さんは、自分の故郷に帰れないことを悲嘆もせずに、俺に会えばいつだって笑ってみせてくれたのだ。俺がせがむたび野菜とお花のスープを作って、いつだって一緒に食べてくれたのだ。
人と顔を合わせずにすむネット上で、姉さんはずっと自分の描いた絵を売っていた。それでアパートの一室で、つつましくひとりで生き抜いていた。
出逢ったころから、姉さんの容姿は変わらない。ふわふわの金髪も緑の瞳も、頭に飾った野菜もぜんぶ。
またスープの味見をした姉さんは、「うん」と嬉しげにうなずいた。ダシをとった後ほぐしておいたささみの身を入れ、アスパラ菜とズッキーニの花もちぎって小鍋に入れる。そうして溶き卵を箸に伝わせてふわふわ流して、いつものスープの出来あがり。
「はい、召しあがれ」
いただきますもそこそこに、俺はスープに口をつけた。
「……癒される……っ」
つくづくと腹の底から言葉がもれる。そんな俺をサラ姉さんはスプーンを手に、にこにこ嬉しげに見つめている。
けっきょくあの日とおんなじように、俺はスープを鍋の底が見えるくらいまでおかわりした。おなかの中から灯のついたようにあったまり、俺は幸せな息をつく。息といっしょに、今までずっと秘めていた言葉がもれ出した。
「サラ姉さん。これから毎日、俺にスープを作ってください」
姉さんのスプーンを口に運ぶ手がとまる。まっすぐな緑の瞳で見つめられ、俺はあわあわ口を開いた。
「ああいや、今のはええと、ずっと思っていたことがつい口に……じゃなくて! いや俺もちゃんと家事するよ! 姉さんと同じくらい美味しいスープ作れるようになってみせる!」
ああ俺のバカ! もうしゃべるな、言えば言うほどドツボにはまる!
一人であせる俺に向かって、姉さんは笑ってうなずいてくれたのだ。自分の目が信じられない俺を見つめて、姉さんは念押しにもうひとつうなずいた。
「さて、それじゃあ秋人くん。まずは『姉さん』抜きで私を呼べるようにならなきゃね」
「サ、サラ……姉さん」
火傷したように熱いほおで口走ったら、やっぱりおしりに「姉さん」がついた。姉さんはたまらずころころ声を立てて笑った。頭に生えたズッキーニもアスパラ菜もミニトマトも、黄色い野菜の花たちも一緒になって揺れていた。
俺もつられて笑えてきた。
この世界に迷いこんだ羽根のない「野菜の妖精」の姉さんと、俺は抱き合って笑いだした。笑えているのに泣けてきて、俺と姉さんは涙でぐずぐずになっていつまでもいつまでも笑っていた。
おなかの中に灯り続けるスープの熱が、甘い薬のように体の芯から温かい。
いつかこのスープを食べるちいさいひとが、俺らの家族になりますように。祈りのように願いながら、俺たちはしょっぱい笑いを笑い続けた。(了)