6 リルー、執務室でちょっと問いただされる。
リルリアンナがアニタに手伝ってもらいながら白い陶器のたらいに入った水で顔を洗っていると、身支度の時間に失礼します、とソフィアが珍しく息を上げて伝言を告げに来た。
「なんと! 陛下が政務室で食事をしようとな?」
「はっ、すぐにご政務に移らねばならぬので軽食になってしまうが、それでもよかったら、とのお誘いです。また、食事の後にお話があると」
「ひ、妃殿下、雫が垂れますっ」
「行くに決まっているっ」
「ではそのようにお伝えして参ります」
「そ、そのように首を振られてはドレスに、ああっ」
急ぎ引き返して返事を伝えに向かうソフィアを見送り、ぼたぼたと顔を濡らしたままでリルリアンナはアニタににっこり笑う。
「アニタ! お食事に誘われたのは初めてじゃ、直ぐに支度をせねばっ」
「妃殿下、肌着まで全取っ替えです……」
「す、すまぬ」
だいたいはつつがなく何事も済ませられるリルリアンナだが、気がかりな事があるとそれに集中してしまうのが玉にキズであった。
アニタはもちろんその癖も第一侍女のイレーネから申し送りを受けていたが、知識として知っていても、実際のその場での対応がなかなか出来ず、最近は少し落ち込む事があった。
リルリアンナはアニタだけでなく、身分問わず関わる人々を大切にしてくれる素晴らしい女主人だが、たまに、いや、時々、いや、酷い時には一日に一回、突拍子も無い事をやってくれるので、慣れないアニタは肝を冷やしている。
ともあれ、いつもは優しい主人に尽くす事はアニタの喜びであり、もうもう姫さまったら、と思いながらも今日は空色のドレスをお勧めしよう、といそいそと衣装部屋へ入っていくのであった。
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普段の朝食の時間よりも遅めに来て欲しいとの事で、少しだけお腹を空かせながらも時間通りに政務室に行くと、これまたいつもとは違い、近衛騎士がきちんとリルリアンナの来訪を告げ、内側からドアが開けられた。
「妃殿下、こちらへ。ソフィア殿とアニタ殿も一緒に入られよ」
側近であるルイスが迎えてくれ、先導してくれた窓側のテーブルにフィリッツは先に座っていた。
「遅くなり申し訳ありませぬ」
「いや、俺がそのように頼んだからな。楽にしてくれ。あっ! 今日はアレは無しだぞ?」
「陛下、さすがに妾も人のいるところでソレはいたしませぬ……」
リルリアンナは王が例の膝に乗る事を言っているのだろうと察し、しゅっと顔を赤らめた。
その様子を見て側近四人はそれぞれさっと妄想が浮かんだが、努めて聞かなかった事にする。アニタだけは新米なのでリルリアンナと同じぐらい顔を赤らめてしまい、動揺のあまり目をぱちぱちさせた。
朝食の用意が整った所で小さく感謝の言葉を紡ぎ、二人一緒に食べ始める。
しばらく黙って食べているのだが、リルリアンナから見てもとても美味しそうにほおばっているフィリッツの姿に、胸がほっこりと温かくなってくる。
「エルムグリンの料理がお口に合うようじゃな。よかった」
「ローツェンと比べれば天と地との差だよ」
「兄が訪問した時は腹がはち切れんばかりのご馳走だったと言っていたが」
「王宮はそうだろうね」
会話が広がるかと繋げた言葉に王の返しはそっけなく、どう返そうかと戸惑っていると、フィリッツの後ろで申し訳ないとばかりに眉をハの字にしている側近ジョセフが見えてリルリアンナは、軽く頷く。
「そう言えば、なにかお話があるともソフィアから聞いたのじゃが」
「ああ、そうだった」
フィリッツは食べ終えナフキンで口もとを拭うと、紅茶を注ごうとしたルイスに、今はいい、と手で制し居住まいを正した。
「昨日、貴女が王宮の外を歩いて行かれるのを見たんだ」
「ああ、ピルーを放ちに行った所を見られたか」
「一人で行かれていたな、不用心ではないのか? 賊に襲われた時に庇う者がいない。伝書鳥は定期的にやっているようだから止めはしないが、せめて供をつけて行くとか」
「あー、うーん……」
後ろで激しく同意をし、首を縦に振っている新米侍女と女騎士の気配も察しながら、リルリアンナはどう説明しようか迷った。
「一応、影はついていますけれどもね」
「そうなのです?」
「そうであっても」
助け船のように発したルイスの言葉に、アニタとソフィアはそれぞれ思わず言葉を発してしまう。
し、失礼しました、とうつむくアニタとは対照的に、ソフィアは顔を上げると、恐れながら発言を許して頂けますでしょうか、とフィリッツに伺いを立てた。
フィリッツは頷いてソフィアを促す。
フィリッツの承諾に、ソフィアはありがとうございます、と短くも一つにまとめた栗毛色の頭を下げ、リルリアンナの顔が見える位置にいき、片膝をつく。
「恐れながら妃殿下に申し上げます。例え影が側についていようとも、距離があれば間に合わぬ場合もございます。せめて一言声をおかけ下さい。お一人の時間が欲しいという事であれば私共も離れて見守ります」
ソフィアの行動をみてアニタも勇気が出たのか、わ、私も、失礼いたします、と王にぺこりとお辞儀をし、ソフィアの隣に急いで座り、無礼を承知で申し上げますっ、と両手を胸の前でぎゅっと握って震え声だが、はっきりといった。
「ひ、妃殿下がどこにおられるのか分からないと、とても心配になります。告げていかれないのは、私が妃殿下付きの侍女として日が浅く、まだ信頼して頂いていないからだとは、思いますが、そ、それでも、精一杯務めますので、どうか、一言、お願いいたしますっ」
それぞれ強い意思をもってこちらを真剣に見上げている二人の様子に、リルリアンナはさっと席を立ち、部下達の前で空色のドレスがふわりと広がるのもそのままに、目線を合わせてしゃがんだ。
「すまぬ、二人とも。まずソフィアとアニタを信頼していないのではない。思い立ったらすぐ部屋を出てしまうのは妾の悪い癖じゃ。いないと思ったらピルーの所に行っているとまず思ってくれていい。なるべく告げるようにするが、少し自信がないのでな」
幼い頃から何度も注意され、自分でも気をつけてはいるのだが、今もってふっと動いてしまう。そんな己を知るが故の言葉に部下達は御意、努めますと頷く。
それから、と少しだけ目を伏せて思案してから、その煌めく黒い瞳を困ったように横目に流しながら苦く笑ってもう一つの理由を話した。
「ピルー、と呼ばれる鳥は複数羽いるのだが、警戒心が強くて見知らぬ者が側にいると降りて来ないのだ。そこをなんとかしたいとは思っているのじゃが、なかなか、な」
「貴女の他にその鳥を操れる者はいないのか?」
王の言葉に、すまんな、気をつける、と二人にもう一度告げ、立ち上がり席に付く。
「影に一人いる。だが、天色国まで飛ばせるのは妾だけじゃ。今一人両国間で飛ばす事が出来るように先日ジジさまとババさまにお願いして影を一人、帰国する時に連れていってもらった」
「なぜわざわざ?」
「卵から孵った時に顔を覚えさせぬと信頼できる者として認識しないのじゃ」
「すり込みか」
「なんと時間のかかる……」
フィリッツの言葉の後にジョセフが思わず呟いた。リルリアンナはゆっくりと頷く。
「ローツェンの方々からすると、なんともじれったい事をしていると思われるだろうが、まぁ、これもエルムグリン流というやつじゃ。理由はおいおい、分かられると思う」
そう言ってリルリアンナはルイスを見ると、ルイスは心得ております、とでも言うように目礼した。
なんとなく政治的な居心地の悪い雰囲気になってしまったのを見て、リルリアンナはそ、そうじゃ陛下、食後の散歩をしよう! と誘った。
「あ、いや、まだこれから政務が」
「どぉぞ陛下! いってらっしゃいませ」
「いいですね、中庭とかいかがですか? 妃殿下」
「あ、あの、中庭ならアザレアが見ごろでしたっ、よかったらお二人でっ」
「陰ながらお見守りします。ごゆっくりと」
フィリッツの空気を読まない発言に、ジョセフ、ルイス、アニタ、ソフィアの順に側近四人が矢継ぎ早に発言し、バタバタとテーブルの上を片付けて追いたてるように執務室から二人を出した。
「ジョセめ、朝食後は缶詰めだと言っていたのに、あいつ。いい顔しやがって」
「ふふっ、陛下想いの良い部下じゃ」
「そうかぁ? 貴女にいい顔をしたかっただけだと思うぞ」
「まぁまぁ、陛下もいまだ政務室と自室の往復じゃろ? 少し歩いた方がいい。行こう、こっちじゃ」
リルリアンナはにっこりと笑って先導を請け負い、腰まで届く豊かな黒髪と空色のドレスをふわりとひらめかせて石畳の廊下を軽やかに歩いていった。