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5 フィリッツはぐらぐらし、リルーを心配する。

 



  そこ、アセーナルじゃなくて、アーセナルじゃ、と細い人差し指が降りてくるまで、リルリアンナに気がつかなかった。


 驚いて仰け反ると、ふわりと花のような香りがして自分の膝の上にちょん、と王妃が座っていた。浅く、遠慮がちに。


 〝麗しの紫紺(しこん)〟とローツェンにも聞こえ及ぶ黒い瞳が真っ直ぐにこちらを見ていて、フィリッツは脳天がぐらりと揺らいだ。


 まずい、と思ったのは後の祭り。




 ****



 近くエルムグリン国王が王位を譲る意向である、その王位をローツェン王国第二王子であるフィリッツに渡すつもりだ、という知らせは放っていた影から聞いてはいた。


 即位以来十年、世継ぎに恵まれず、さりとて現王妃と離縁する気はなく現役を続行していたエルムグリン王は、いよいよ自分の血統を捨てる決意なり、と報告書にはあった。

 しかしその王位をまさか、幼少の頃からの婚約者とは言え他国の王子に譲るとは思いもしなかった。

 それでいいのか、とも正直に思った。


 嬉々として当然のごとく送り出す父母にありきたりな挨拶をしてさっさとエルムグリン王国に来た。

 子に恵まれた父にとっては皇太子以外は第二も第三も四も五もただの駒だ。幼き頃より王国の要所へと預けられ、成人と同時に一番敵地に近い北のバロック領に飛ばされたのは、一番父との相性が悪いからだろう。


 エルムグリンとローツェンには、両国にまたがって連なる〝天を衝く山(トラフィーグ)〟山脈がある。

 エルムグリン側の裾野は人馬が通るのも難所の道が多く、山が北の防衛を担っているが、ローツェン側は海へ伸びるにつけ山脈の裾野が低くなり、ローツェンの北に位置する雪と共にある国ブクモール共和国の少数民族から度々襲撃を受けていた。


 バロック領はその防衛の最前線であり、フィリッツは王子と言えども戦線の近くに居る事も多く、北の屈強な男たちに鍛えられる日々を送っていた。

 そんな中で正式にエルムグリン王国より養子として王家に入ってもらい、王配ではなく王として国を担ってもらいたい、との要請がきたのである。


 フィリッツはローツェンからエルムグリンの領土に入った時、その爽やかな風と目の前に広がる緑の草原に走馬灯のように一度だけ訪れた事を思い出した。


 自国とは違う豊かな緑と水の大地。他国の者にも気軽に挨拶をする穏やかな人々。

 王宮近くの外の森で出会った神秘的な黒い瞳の少女。後にその少女が婚約者だったと分かった時は、心くすぐるものが無かったと言えば嘘になる。


 しかし十年も交流らしいものがないと、自然と記憶の片隅にあるぐらいになってしまった。

 影からの情報では〝美しくも人形のような感情に乏しい姫〟と聞かされて、実際、たまに届く(ふみ)は独特の言い回しが多く、なんとなくこちらを寄せ付けない感じを受け煙たく思っていた。


 十年ぶりの再会時にはリルリアンナも戸惑っているようであったし、なによりまだこの春十七になったばかりの少女。

 自分の手には余り、政務を理由に少し距離を置いて、こちらが落ち着いてからお互いの距離をつめていこうと思っていたのだ。


 そこへ突然、王妃の来訪。


 フィリッツは数日経った後でも時折、ゴンと執務室の机に額を打ち付けている。


「何処のどいつだ、美しくも人形のような感情に乏しい姫だっつった奴……全然ガセネタじゃねぇか。なんだ一日一回は顔が見たいって。ベタ惚れじゃねぇか……」


 すっと視界に入った細い指先、笑うと澄ました顔が可愛く崩れる。

 泣かれて思わずついばんだ小さな唇は思いのほか柔らかく、見開いた黒き瞳と共に艶めいていて、可憐なのに手折りたくなるような色気を発していた。

 なんとか止どまって放したのに、だめ押しの抱き付きに、脳天がぐらぐらする。目の前に広がった黒とも紫とも言えぬ美しい髪から醸し出されるジャスミンの香り。


 ゴン、ゴンと何度も額を打ち付けて残像を消さなければ、領民が待ち望んでいる橋が掛からない所であった。


「まさに、青天の霹靂(へきれき)とはこのことでしょうねぇ」


 ノックをして返事も待たずに入ってきたのはジョセフ・ハーフナー。ローツェンから連れてきた唯一の側近である。

 足早にこちらへ来ると、執務机の脇にあるテーブルにお茶と軽食がのったトレイを置いた。

 三十に手が届く細身のこの男はバロック領に移る前から側で仕えてくれた側近だ。

 母国に帰ることは叶わなくなるのでついて来なくていい、と言ったのにも関わらず、独り身なのでお気を使わずに、と飄々(ひょうひょう)とついてきた変わり者である。


「小難しく言うな。思いもよらない、でいいだろ」

「陛下の言葉が思いっきりバロック訛りになっていましたのでね。切り替えて頂きたく愚考したしだいで」

「お前こそ王を王とも思わぬ物言い、なんとかしろ」

「要人の前ではわきまえていますから」

「ははっ、では私もジョセフ殿と同じく気軽に喋ってもいいですかね?」


 気安く話しかけながらドサリと執務机に書類の束を置いたのはエルムグリン側がつけた側近、ルイス・アンダーソン。先王クリストファーの懐刀と言われ、前王の治世を支えてきた男である。

 アッシュブラウンの短髪、切れ長の目で物腰も柔らかいので侍女達に人気らしい。

 しかし柔らかな物言いの中にさらっと辛い事を絡めてくる辺りがクリストファー仕込みだと影達が騒いでいた。


「そのように頼む、堅苦しいのは苦手なんだ。幼少からこっち、庶民の中で育てられたようなものでね、正直貴人の集まりになんか出たくもないのが本音だ」

「特に舞踏会など数々の理由をつけて逃げておいででしたものねぇ」

「うるさい」


 湯気の立つ紅茶の香りに誘われて立った王は肩を回しながら柔らかい日差しが入る窓際のテーブルに座り、お前らもどうせまだ食ってないんだろ、と昼に近い朝食を相伴させる。


 ジョセフは慣れているから遠慮なく座ったが、ルイスも戸惑う事なく座った事にフィリッツは先王クリストファーの部下との関係を垣間見た。


「クリストファー殿ともこうして一緒に食事をとっていたのか?」

「ええ、気さく過ぎる方でしたから。もっともエルムグリンの人間はあまり身分に頓着しない傾向はありますけれどね。フィリッツさまも気さくな方でありがたいです」


 軽くローストしたパンにバターを塗り、付属のトレイにあるベーコン、ハム、エッグ、サラダ、トマト、チーズなど、自分で選んで挟むのがエルムグリン流らしい。

 ルイスはフィリッツの好みを聞いて挟んだものを手渡してくれる。

 ジョセフは紅茶をそれぞれに配り、揃ったところで食事の祈りをささげ、食べ始める。


 しばらく無言で食べていたのは、腹が減っているのもあるが、エルムグリンの食事がシンプルでありながら美味いからだ。

 フィリッツが食べているのはベーコンとチーズとレタスを挟んだパンだが、素材の味が良く、あまり余計な調味料を加えなくてもそのままでいける。


「食事が上手いのが最高だ」

「バロックの塩パンに慣れた者からすると天国ですからねぇ」

「気候が違うとそんなに違うものですか?」

「ああ、気候もだが、山岳地帯だからな、取れる作物は芋に限られているし、物資そのものも届くのが遅いしな。こんな新鮮な葉なんてありつけないんだ」


 そう言うと、二個目のパンはレタスを多目にトマト、エッグを挟んでオリーブオイルと塩だけを掛け、これだけで上手いなんてやっぱり最高、とローツェン組はがっついている。

 大の男二人がヘルシーなサラダパンをむさぼり食べている様子に、ルイスは軽く驚きながらも、どうぞどうぞ、野菜はたくさんありますから、とにこにこしてサーブした。


 各々三つも食べてしまった軽食を片付け、食後の紅茶を飲みながら一息ついていると、そう言えば妃殿下が朝、ちょっと寂しそうなご様子だったとか、とルイスが切れ長な目を細めて面白そうに言った。


「ぶふぉっ……今朝は食事を一緒に出来ないと、ちゃんと言ったよな? ジョセ、お前、通達しなかったのか?」

「失礼な。通達したに決まっています」


 主人が吹き出した紅茶の飛散を無作法ですねぇと布で拭き取りながらも、ジョセフは白金の前髪から覗く灰色の目を細めて疑った主人をじとーと見る。


「ああ、ちゃんとお伝えされていましたよ。それでもお寂しかったようで、あんまり食が進まなかったと料理長がぼやいておりました」

「いや、俺も別にわざと一緒に食べなかったわけじゃ」

「もう少し政務能力が高ければ朝食もご一緒に食べられると思いますが、教育が行き届かない田舎者で申し訳ないですねぇ」

「いえいえ、もともと武の方がお得意だと聞いておりました。もっと脳筋な方とも仕事をした経験からすると、陛下はかなり頑張っておられる方です。いかんせん時間の使い方が下手でいらっしゃるが」

「ですよねぇ、納得がいくまで判が押せない所が長所であり短所でして」

「なるほど、心得ました。次回からは納得が出来る資料を集めて一緒に提出します」

「よろしくお願いいたします」

「おいっ! そういう嫌味ったらしい連絡事項は本人のいない所でやってくれっ」


 フィリッツが堪りかねて叫ぶと、美丈夫二人はおやっと、同じタイミングで主人を見る。


「ご本人の前でこうやってお話するのが側近の楽しみなのですよ、陛下」

「そうですねぇ、チクチクとつつきながらも教育をしているこの親心が分かって頂けないとは、やはり育て方を間違えましたねぇ」

「お前に育ててもらった覚えはないっ、というか、側近って似た者同士なのか? 変な所が似てるぞ、お前ら」


 フィリッツは嫌味を返したのにも関わらず、側近二人は、なんと、光栄です、ジョゼフ殿、こちらこそですねぇ、よろしくお願いいたします、ルイス殿、と握手をして結託している。


 さじを投げたフィリッツは二人を無視して窓の外に目をやると、王宮の外に出る黒髪の少女が目の端に移った。


「リルリアンナ⁈」


 (とも)もつけずに外を歩く姿に思わず席を立つと、ルイスがのんびりと言った。


「ああ、大丈夫ですよ、ピルーという伝書鳥を放ちにいくのだと思います。妃殿下のお祖母様、天色(あまいろ)国のマソホ様との連絡手段として定期的に使っているのですよ」

「いや、それにしたって一国の王妃があのように身軽に出歩くものなのか?」

「さぁ、他の国は存じ上げませんが、我が国では王族の方も外にお出になりますけれども」


 特に変わった事ではない、というルイスの認識にローツェン組は顔を見合わせる。


(これが普通?! エルムグリンの要人警護はどうなっているんだ?)

(分かりません、調べます)


 視線で会話し、もう一度外を見て黒髪を探すと、鳥を放って王宮に戻る所だった。その時分になってやっと二人の侍女らしき者達が王妃に駆け寄る。


(何故一人で出られるんだ? 側近をまいたのか?)


 リルリアンナの要人らしからぬ振る舞いに一抹の不安を持ちつつ、無事王宮内に戻ったのを確認してフィリッツもまた政務に戻った。


 その日は橋の建設の件でアーセナル領主との会談も入っており、リルリアンナとも会えずにこの件を問いただすのは翌日となるのである。






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