4 リルー、勇気を出して告白する。
春の陽気な風に祝福されるように、エルムグリン王国では無事即位式兼婚姻式が執り行われた。
王宮、大広間で諸外国要人に見守られた中、ルーツェン王国第二王子フィリッツ殿下は国王、フィリッツ・マルーン・エルムグリンとなり、リルリアンナは名前は変わらねど、敬称が王女から王妃へと変わった。
宮殿のバルコニーから国民への挨拶をする時、普段は視界の先まで眺められる緑の草原を埋め尽くすほど両国の旗を振って祝福してくれる人々を見て、リルリアンナは心を新たにする。
(国民が祝福してくれている。皆のためにも、早く世継ぎを作らねば。その為にはババさまから頂いた〝ホニャ=ラーラの指南書〟を読み込まねば)
兄からも言われていたが、即位後は忙殺されるぐらいの忙しさが王に降りかかるので、すぐに閨の渡りはほぼ無い。
七日待ってなかなか来なかったらリルーからそれとなくアプローチしてみなよ、とアドバイスを受けていた。
兄の読みは正しかった。
一応念のために、渡りがあっても良いように準備して寝室に入るのだが、閨の渡りは待てど暮らせどなかったのである。
リルリアンナも式後の残った賓客の対応に追われていたが、全ての招待客が帰ったのをきっかけに例の本を読み込んでいく。
しかしどうしても分からない単語が枕にあり、なんとなく内容はわかるが、うまく飲み込めずにいた。
天色国のマソホとソウゲンに聞いてみたかったが、二人は式が終わると早々に帰国する予定だったので、聞きそびれてしまった。
自分でなんとかするしかない、と意気込んで何度も調べては見たものの、上手く噛み砕けず、やはり聞くしかあるまい、と側近に尋ねてやっと意味がわかったのである。
そしていま、〝ホニャ=ラーラの指南書〟を実行しようと王の執務室に入り、その一が無事成功出来たので、さらなる実行を試みるべく、リルリアンナは王に近づいていた。
王は執務机に置いてあるものを睨み、時折何か書き留めている。
(陛下……妾が来ているのにもとんと気づかぬ……今はなんのご政務をしているのだろう)
リルリアンナは緊張しながらも、何を書いているのだろう? と背後に回ってフィリッツの肩越しに覗き込むと、領地の北東から流れる川に橋を渡す許可を出す所であった。
エルムグリン王国は領土の北はほとんど人が入れぬほどの高い山脈が連なっており、そこを源流として流れる川が西と東に大きく二つあった。
今回、橋をかけてほしいと嘆願が出ているのは西の方のリーヌ川だった。
フィリッツが仮として渡そうとしている場所を見て、リルリアンナは頷く。
交易としても国の防衛を考えたとしても、過不足のない位置だったからだ。
ただ一点だけ、王の手元にあるメモに領地のスペルが間違っている事に気づいて、思わず、そこ、と指をさした。
「そこはアセーナルではなく、アーセナルじゃ」
「ああ、すまん」
ささっと二重線を引いて書き直した所で、んあぁ?! とフィリッツはすっとんきょうな声を上げた。
仰け反って驚き、執務机から少し身体を離した王を見てリルリアンナはハッとした。
リルリアンナの脳裏にバラバラバラと箇条書きにされた文言が高速で流れて、ピタッと止まる。
これじゃ!! ナムサン!! とババさま直伝のお呪いを心の中で叫んで、リルリアンナは身体を王と執務机の隙間に滑り込ませ、ちょこんと膝に座った。
恋人の気をひくためのレッスン その十五
恋人の膝に座り、寄り添っておはなしをしてみよう!
こてん、と肩にもたれる事が出来たら、さらになお良し!
(こてん、こてんは……出来ぬっっ!)
膝に座るだけでもハードルが高いのに、こてん、だなんて出来るわけが無い。
一気に距離が近づいて口から心臓が出そうなのだ。
しかしそれはリルリアンナだけではなかったようで、目の前の人は、な、なななんで王妃がここに居るんだっと普段とは違い、上ずった声で叫んだ。
「そ、そなたが来ぬからじゃ」
「いや、それにしたって近いっ」
「これが普通ぞ? 普通だと指南書に書いてあった」
「待てっ、一体全体、なんだってんだっ」
「あのな、今日は天色国の恋人の日という記念日なのだそうな」
「はぁっ?」
「本来は恋人に何か贈り物をする日だそうだが、あいにく妾も今日知ったのでな。持ち合わせがない。だから会いに来た。即位式の後から一度も会っていないのでな」
「いや、それは悪いとは思っているがっ」
「案ずるな、分かっておる。だからこうして会いに来たのじゃ」
リルリアンナもそうとう心臓がどうかなりそうだが、自分よりもさらに動揺している人を見ると、不思議と心が落ち着いてきた。
フィリッツを落ち着かせようとちゃんと会話になっている。にこりと笑う事も出来た。
「わ、分かった。会いに来てくれて礼を言う。だが、少し離れちゃくれないか? 距離が近すぎる」
「なぜじゃ? これで良いと指南書には」
「そういうのは閨でやるもんだっ」
フィリッツがあまりこちらを見ないようにしながら言っているのに気づき、自分が近づいてはだめなのか、とリルリアンナは傷つきながら、閨に来ぬではないか、とぽそっと呟く。
「ぐ……ここでする訳にはいかんだろうが」
「何を?」
言いよどんだ意味をはかりかねてフィリッツを見ると、だあぁっ! と盛大なため息を吐いていた。
再会してから今までリルリアンナに見せてきた余所行きの顔とは違って、等身大のフィリッツは表情が豊かだ。
今も癖のある前髪をぐしゃぐしゃと右手でかいて、横目でちらっとこちらを見て、さらにため息を吐いて言う。
「あの、な? 王妃はまだ閨のなんぞやも知らないだろう? だから、その、とにかく一回離れてくれ」
「いやじゃ」
「嫌って」
リルリアンナはぎゅっと眉をひそめた。
フィリッツは離れたがっている。やはり自分は思っている以上にフィリッツの好みではないのだ。
深く傷つきながらも、引くわけにはいかなかった。ここで引いたらダメになる。
ジワリと滲みそうになるものを堪えて、リルリアンナはフィリッツを見上げた。
「陛下と妾は恋人じゃろ? 今日、恋人とはなんぞ? と部下に聞いたら想いを寄せる相手だと、そう答えた」
「う……まぁ、そう、とも、いう、か、な」
「違うのか? 陛下は妾の事を想ってはいないのか?」
「い、いや、そもそも、そんなまだ会って話もしていないし、な」
「だから会いに来た。指南書には恋人同士はこうして寄り添って話すものだと書いてあった。……距離が近ければ、妾の事、好きになるかもしれないじゃろ?」
王妃が最後にひそっと話すと、王はハッとした。
リルリアンナは唇を噛んで、その様子を甘んじて受けた。
これではっきりとした。
陛下は妾の事を好いてはおらぬ。
好いてはおらぬのじゃ。
でも、それでも、この国に来てくれた。
妾が、妾が何とかしなければなんとする?
いろいろな事を告白しなければならない。
それでさらに離れたとしても、また、妾が近づけばいい。そうじゃろ? ババさま。
リルリアンナはうつむき、微かに震えながら夫に告げた。
「妾は、妾は……幼きころより、そなたの事は……こ、好ましく想っていたが、うん、そなたがそうは想っていない事はやはり幼少のみぎりから知っておった」
「リ、リルリアンナ姫」
「そなたの好きなばばーん、ぼぼーんにはなれぬかもしれぬ、と悩んだ時期もあった」
「な、なぜそれを⁈」
「壁に耳あり障子に目あり、という古き言葉があってな。つまりはそういう事じゃ。でもそれはお互い様じゃろ?」
「うっ、ま、まぁ」
往々にして両国双方間者を放っているというのは暗黙の了解というものだ。
ただフィリッツの方は情勢の変化を見るために放っており、リルリアンナは婚約者の嗜好を見るために放っていたというのは大きな違いであったが。
「骨格の違いは如何ともしがたく、無念じゃ。陛下、それでも、一応ささやかながらある。これで許してはくれぬか」
「いや、普通にある。大丈夫」
「まことか?! それならば良かったっ」
そう言ってぱあっと嬉しそうに笑ったリルリアンナを見て、フィリッツは困ったようにガリガリと頭をかくと、観念したようにその輝ける瞳を見つめた。
「リルリアンナ姫、俺はまだ貴女の事は何というか、妻というよりかは、姪ぐらいの気持ちだ。従って閨もまだ、正直に言うとその気になれないんだ」
「……」
途端に曇ってしまった瞳に苦笑して、フィリッツはそっと頬を撫でる。
「でも、貴女の気持ちは受け取った。俺も貴女の事は嫌いじゃない」
「嫌いじゃないというのは好きではないというのと同義」
「違う。好いていく可能性がある、という事だ」
「……」
言葉はにごしているが、断られたのと同じ事だ。
やはり、妾では、だめか。
リルリアンナは、今まで必死に我慢してきた想いが溢れ出てしまうのを止められなかった。
「ち、違うと言っているっ……あー、泣くな、そうじゃなくて……」
ぶわぶわと視界が揺れて、全ての輪郭がぼやけていく。我慢してもしきれない雫が、ぽたりと落ちた。
その雫をフィリッツが拭う。
リルリアンナはゴツゴツとした指に戸惑っていると、ぐいっと腰を抱かれて前に出た。あ、とも、う、とも思う間もなく頬を包まれ、柔らかなものが唇に触れた。
(へい……か……?)
何が起こったか分からず、目を見開いてフィリッツを見ると、夫は微笑ましそうな、でも困ったな、とでも言うような複雑な顔をしてこちらを見ていた。
「好きでもない相手とは口付けはしない。指南書にそう書いてはなかったか?」
「よく……分からぬ」
「まぁなぁ。指南書はあくまで指南書だ。俺たちは俺たちの指南書を作ればいいんだと思うのだが、どうだろう? 奥さん」
灰緑色の瞳がおどけたように笑うと、妻は呆然としながらも、呟くように言葉を紡いだ。
「……よく、分からぬが、そのようにするが良い、ような気が、する」
「よし、交渉成立だな。閨はまだ早いが、なるべく顔を見に行く。それでいいか?」
「一日一回は顔が見たい」
リルリアンナは慌てて条件をつけた。
なるべくなんて、嫌だ。
ちゃんと顔を見たい。
夫婦なのだから。
この七日間、来るか来ないかの人を待つのは辛かった。フィリッツがずっと執務室にこもっていて、どんな顔色をしているか心配だった。
リルリアンナの記憶に父と母の寄り添っている思い出は無いが、兄夫婦やジジさまとババさまは忙しくてもどこかで必ず二人揃って話していた。
「……努力するよ」
くしゃっとリルリアンナの頭を撫でながら、なぜかふいっと横を向いて言ったフィリッツに、リルリアンナは嬉しくて思わずぎゅっと抱きついてしまった。
(あっ、しまった、つい……と、とりあえず部屋に戻ろう)
「で、では、また明日な、約束じゃぞ、明日なっ」
そう言ってさっと膝から降りると、足早に執務室を出た。
すたすたと真っ直ぐに自室に帰ると、後ろからついてきたアニタとソフィアに夕餉まで呼ばなくていいと言い置いて、奥の寝室に行く。
ぼすんと身体をベッドに投げ出した。
「陛下が……」
口付けをしてくれた……
震える手で唇に触れる。自分の指先とは違う、初めて知った柔らかな感触を思い出して枕に突っ伏す。
「……っ」
嬉しくて、身体がぎゅっと縮こまって、どうしたらいいか分からない。
リルリアンナは突っ伏したふかふかの枕を抱きしめると、叫びたい気持ちを抑えながら小さく小さくきゃーと叫んで、そのままベッドの上でゴロゴロと身悶えしてしまった。
雨音AKIRAさまに描いて頂きました。
迷いに迷って本文途中に入れました。
まるで挿し絵のようです。
雨音AKIRAさま、ありがとうございました!