28 リルー、夢じゃなければいいのに、と呟く。
優しく頭を撫でられる感覚がして、リルーはふっと目を開けると、フィリッツの戸惑った顔が見えた気がした。
陛下が何か囁いている。
何を言っているのか聞き取れない。
ああ、そうか、夢じゃ、と理解した。
お会いしたら言おうと思っていた事が沢山あったはずなのに、手からこぼれ落ちるように霧散して言葉にならない。
寂しい
会いたい
でも怖い
逃げて、しまった
夢の中フィリッツは、以前と同じく優しい瞳をしている。
フィリッツに放った言葉に偽りはない。
国民一人一人を想う事が出来ない為政者になりたくはない、これはフィリッツに、というよりは自分に放った言葉でもあったが、ジルの母親の姿を目の当たりにして感情が高ぶり、それを正確に伝える言葉が出なかった。
フィリッツが、何も考えない人ではないのは、ジルに対する態度で分かっていたのに。
声をかける勇気が欲しくて作ったデザートは見た目がすごい代物で、とても食べてはもらえまい、と尻込みするリルーを、アニタとソフィアと料理長や厨房の者が背中を押してくれた。
好きな奴が作った初めての手料理を食わねぇ男なんかいねぇ! と言い放った若き料理長の言葉にみんな頷いていた。
少しトキトキする胸を押さえながら執務室を覗くと、真剣な顔をして地図を覗き込んでいるフィリッツがいた。
ルイスやジョセフとも議論している。
邪魔をしてはならぬ、と、とっさに身を引いた。
王はいかなるときでも、公の事を考えない時はない。
分かっていた、はずなのに。
後ほど、皆さま完食されて美味しかったと言っておられましたよ、とアニタから嬉しそうに言われて、そうか、よかった! と三人で手を取り合って喜んでいても、フィリッツに直接言ってもらいたかった、との思いがせり上がってきて、心とは裏腹に必死に笑みを浮かべてその場をやり過ごした。
陛下がエルムグリンの事を真摯に考えていてくれて、嬉しい。
リールの件も深く受け止めて動いている、というのもルイスがソフィアに稽古をしながら伝えてくれたらしく、聞き及んでいる。
さすが陛下じゃ
そう言いながら……とくとくと溜まっていく蒼い想いに蓋をした。
「へい、か」
「ああ」
「会いたい」
「……ああ」
「あやまりたい」
「謝らなくていい」
「ゆるして、くれるだろうか」
「許すさ」
夢の中のフィリッツは優しく前髪を梳いてくれて、まなじりから流れ出た雫をゴツゴツした指で拭ってくれた。
広く大きな手に頬を乗せて少しだけ甘えた。
陛下、一緒に居たい
一緒に、話がしたい
声が、聞きたい
そう、囁いた。
もう少しだけ、待ってくれ、と言われた言葉が苦しげに聞こえて、夢の中でまで困らせてしまったか、と謝った。
髪を触られる心地よさと、頬を包む手のひらの暖かさにとろとろと意識がまた深く深く落ちていく。
名前を呼ばれながら額に柔らかく触れる感触に安心して、深呼吸をした。
夢じゃなければいいのに
思わず口についた言葉にフィリッツが何か言っているが、言葉はとぎれとぎれで、やがて消えた。
ああ、やはり、夢だった
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ふっと目を開くと、見慣れた天蓋の白いベールがくくられた深緑色の布地が見える。
上半身をゆるく起こすと、朝が明ける所だった。まだ弱い朝日の光の中で、リルリアンナは重い瞼を開ける為にサイドテーブルに手を伸ばした。
小さなグラスに水を注ごうとして、グラスの下に挟まった紙に気付く。
〝ベリー、美味かった。ありがとう。F〟
リルリアンナはとっさに小さなメモ握りしめベッドを滑り降りると、ショールを巻いて走って扉を開ける。
「昨晩、陛下はいらしたか?」
寝所の扉を守る近衛騎士は驚いたようにリルリアンナを見て、すぐにさっと目線をリルリアンナの頭の上の方に固定し、すみません、自分は交代したばかりで分かりませんが、申し送りにはその旨はありません、とだけ言った。
「そうか……すまぬ。勤め、ご苦労」
「はっ」
ふらふらとまたベッドに戻り、とさ、と座ると、何度も何度も文面を見た。
一年に一度、カードを送りあっていた時と変わらない力強い筆跡。
でもそこに書かれているのは、婚約者の時のような他人行儀な言葉ではなくて、短くも、心のある言葉だ。
リルリアンナはそっと紙を胸に当てる。
トキトキと柔らかく波打つ鼓動に、ほろりと笑みがこぼれる。
姫さま、おはようございます、というアニタの声に、リルリアンナは振り向き弾んだ声で返事をした。
続いて入ってきたソフィアを待って、フィリッツから手紙が届いた事を告げると、アニタは、ぱちぱちぱちと拍手して、よかった、姫さまっと涙ぐみ、ソフィアは、胸をとん、と叩き、おめでとうございます! と礼をすると、自分の事のように破顔した。
リルリアンナは頷き、アニタに急いで男装の少年兵になる支度を頼んだ。
今日は三日に一度のジルとジルの母親の様子を見る日。
朝から行けば、お昼過ぎのおやつの時間には王宮に戻ってこられる。
自分でお菓子を作る時間はないけれど、料理長に頼んで一緒に食べられるデザートを持って会いにいこう。うまくすればまた頭の中を〝ホニャ=ラーラの指南書〟がパラパラと巡るかもしれない。
そうしたら、フィリッツはどんな顔をするだろうか。 あの優しい目で見てくれるだろうか。
リルリアンナは髪をゆわれながら鏡台の前に置いた手紙を見て微笑んだ。
今日は執務室に入ろう。
その勇気が持てた。
フィリッツの手紙が、その勇気をくれた。




