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22 リルー、背を向けて、叫ぶ。

 



 リールの街を外れ、リーヌ川の河川を下流へと下って行った先にジルとジルの母親の家はあった。

 明らかに自分達で作ったのであろう、隙のある板を打ち付けた雨露をしのぐだけの掘っ建て小屋にジルの母親は横たわっている。


 全員は入れないので、ジルとフィリッツとリルリアンナが薄い布で覆われた室内に入ると、むわっとすえた匂いと篭った空気がまとわりついた。

 リルリアンナは口元を覆いそうになる手をぎゅっとにぎって必死に我慢する。


 寝ているジルの母親の枕元に座ると、土気色した瞼がぴくぴくっと動いてうっすらと目を開けた。

 真っ白な腕は血管が浮き出ているほど細く、落ち窪んだ瞳はパサついた髪の毛と同色の栗色、典型的なエルムグリン人の若い女性だった。


「あ……」


 うつらうつらとしていた所を起こしたらしい。ゆっくりと焦点があって、こちらを見るつり目の不安げな表情が、ジルとよく似ていた。


「ああ、起きなくていい。私はリルー、ジルから少し話は聞いているか?」

「は、い」


 カサついた唇から紡がれた声の高さに、リルリアンナはぎゅっと目を瞑り、やがてじわりと目を開くと、優しく、若すぎる母親の手を取って握った。

 末端にまで肉が無くなってしまった、薄く指の骨が見えるような儚さに、しばらく言葉も出ない。


「かーちゃん、俺、働き口見つけたんだよ、マーチン食堂って所、明日から働けるんだ!」


 ジルはいつもと変わらない口調で母親に自慢げに話す。母親はジルの方を向いて、こっくりと頷いた。


「賄いも貰えるし、お昼の休憩にはここに一旦戻ってこれるから、かーちゃんのお昼も持ってこれるし、これで少しは元気になるよね!」

「うん」

「今まで一回しか食べられなかったからさぁ、かーちゃんちょっと痩せちゃったけど、二回に増えたらまた起き上がれるよね!」

「うん」


 ジルの母親は、空いた方の手をそっと上げて手招きをすると、ジルの頭をゆっくりと優しく愛おしそうに撫でた。


 そして、リルリアンナの方を向くと、ごめん、なさい、と小さな声で言った。

 ジルによく似た、ジルよりもか細い声音で。


「いや、……いや、妾こそ……」



 知らぬ、とは、

 なんと、罪深い事だろう。



 豊かなエルムグリンで、

 ジルのような子供を見て見ぬふりをする人々がいるとは思ってもいなかった。

 たかだたか髪や目の色が違うだけで、差し伸べられる手も無い。

 バザールの行商の方がよほど熱く、しかしその熱を受け入れる事もなく流してしまうリールの役人。



 このような迫害が起こっている事も、知らなかったなんて。



 ギリッと唇を噛んだリルリアンナの肩を、フィリッツがぐっと掴んだ。


「リルー、そろそろ行こう。詳しい事情も、もう少し体力がついてからでないと」


 リルリアンナは頷いて、ぐっと口を引き締めると、ふわっと緩めて、ジルの母親の目に向かって穏やかに言った。


「ジルの事は、安心していい。貴女も少しずつ食べられるようになったらまた動く事が出来る。それまでは私か配下の者が見守る」

「おい、リルー」

「妾も一旦戻らねばならないが、またこの街に来る、それまで、待っていてくれるか?」


 リルー、無茶を言うな、というフィリッツの言葉には応じず、リルリアンナはじっとジルの母を見つめる。


 母親は大きすぎる(まなこ)を開き、ただただこちらを向いて生気のない顔をしていたが、やがて、唇をへの字に曲げて、ぶるぶると震え出した。


 ずっと、我慢していたであろう涙が、後から後から流れ出てくる。


 薄汚れた布に広がる、いく筋にも薄茶に染まった跡が切なくて、母親がジルに黙って泣いていた夜を想い、リルリアンナは息が浅くなるほど胸が痛んだ。


 リルリアンナは身を乗り出して、ジルの母親を壊れないように抱きしめると、涙を拭ってやり、また、来るな? それまで少しでも、食べられるようにな? とコケた頬を撫でると、祈りを込めて額に口付けた。


 そして身体を起こしてジルに向かい合うと、金色の瞳を見つめ、ぐっと力を込めて言った。


「ジル、また来る。それまでしっかりな」

「うん!」

「何か心配事があったらマーチンさんに相談するのだぞ? 遠慮はなしでいい。あの方達は信頼できる」

「うん!」

「お母上の事も、妾からも話しておく。まずはしっかり働くことじゃ」

「はい!」


 ジルの、リルリアンナと居るときよりもはきはきとした答えに、母親に良い所を見せようとする想いを察し、またこみ上げるものをなんとか収める。


 うむっ、と無理矢理笑顔を作ると、ではな、またな、と手を振り、ジルの家を出た。


 無言で歩き出したリルリアンナを見て、追おうとした側近達をフィリッツは黙って制すると、足早に歩いてリルリアンナの腕を握った。


「離してくれぬか」

「いやだ」

「止めても無駄だ」

「王妃としての責務を放り出すのか」

「どちらもやる!」

「そんな生半可なもんじゃねぇだろ!」


 フィリッツの荒らげた声に、リルリアンナは黙って立ち止まった。


「毎日など来れぬ、そんな事百も承知じゃ。妾が来れぬ時は影に守らせる。せめてそれぐらいは」

「影はリルーを守る為の者だ。それを割くわけにはいかない」

「ずっとではない、ジルの母親が動く事が出来るようになるまでじゃ。ほんの三月(みつき)四月(よつき)の事じゃ」

「要人でもない者にそこまでする必要は」


「要人でも、ない?」


 リルリアンナは鋭い目でフィリッツを見上げた。


「ジルの母親は要人ではないのか? ジルの現状を把握してリールの役人にも進言するのではなかったのか? その為にここまで来たのではないのか?」

「リルー、違う、すまん、言葉を誤った」

「何も誤ってなどおらぬ、フィリッツ殿からしたらジルの母親は助けるに値しない人間という事じゃ、だから要人ではないなどと」

「落ち着け、リルー、感情的になり過ぎだ」


 リルリアンナはぶんっと左腕を振り上げてフィリッツの手を外す。


「感情的になり過ぎるな、と?」


 燃えるような目でフィリッツを睨んだリルリアンナは、感情など、関係ない、と吐き捨てるように言った。


「瀕死の国民、一人も救えぬ者が、為政者たらんと胸を張れるのか? 明日をも知れぬ者を見捨てて、ぬくぬくと王宮におれと? 妾はいやじゃ」

「リルー、俺は」


「そんな為政者など、いらぬ」


 リルリアンナがそう言い放つと、フィリッツの気配がすっと変わった。


「そうか、分かった」


 聞いたことのない冷えた声音に、リルリアンナがハッと顔を上げると、フィリッツはぐしゃり、と癖のある前髪を掻き上げてから、冴え冴えとした灰緑色の目でリルリアンナを見下ろした。


「俺は俺のやるべき事をやる。貴女は貴女の思うままにするがいい」


 そう言うと、リルリアンナの方は一度も見ずに踵を返して側近達の方へ戻って行った。


 その背中を見て、ドクッと自分の脈が跳ね上がるのを感じる。



 陛下を、怒らせた。



 さっと顔から血の気が引いたのが自分でも分かった。その事実が後を追ってリルリアンナの鼓動を早鐘のように鳴らす。

 しかし、ぶるぶるぶる、と首を横に振ると、妾は間違っておらぬ、と小さく呟いた。


 その頼りない自分の声が耳につき、ぐっと親指を中に入れて拳を握ると、


「妾は、間違っておらぬ!」


 そう力のかぎり叫ぶと、フィリッツ達に背を向け、一人、走り出した。




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