17 リルーは顔を覆い、フィリッツはその手を外した。
一夫一婦制を推奨しているエルムグリン王国は元々王族が少ない。リルリアンナの母が亡くなった時、宰相以下臣下は後妻を取ることを進めたが父は頑として首を縦に振らなかったようだ。
父と母が協力して治めていた国を父が一手に引き受ける事になり、多忙を極め、流行病ですっと亡くなってしまってからは、リルリアンナはクリストファーに言われるまでもなく、幼いながらも政治に協力するべきと、心を砕いてきた。
リルリアンナは視線を天井に移してじっと焦げ茶色の板の目を見つめる。
「ある時、国防に関する事を思うと、動悸がしてくるようになった。国を統べる身としては、時にいろいろなものを切り捨てねばならぬだろう? 地図を見ながら、ここが攻められた時にはここを切る、こちらならここだ、と兄上に言われた時、妾の脳裏に浮かぶのはその土地で暮らしている国民の顔じゃった」
「切り捨てられなかったか」
「ああ。何度考えても。でもそれでは、為政者として失格じゃ」
「そうだな」
「だから、陛下が呼ばれた。こんな欠陥のある人間の婿として」
努めて淡々と喋るようにした。ひどい話なのだ。もうリルリアンナとフィリッツは婚姻を結んでしまっている。
フィリッツが嫌だと思っても、離縁する事はそうそう叶わない。国同士の諍いになる。
「嫌だと思われても、離す事も出来ぬ。側室を持つ事も、たぶん難しい。国民が望んでいるのは陛下と妾の血が混じった子じゃ。それに……」
リルリアンナはだんだんと歪んでいく視界に耐えきれなくなって、両手で顔を覆った。
「陛、下に……嫌われ、たく……ない……こんななのに、いっしょに……いたいのじゃ……」
こんな、十七になったばかりの小娘を貰って、どう思ったのだろう。
慣れない土地に来て、ここの風習にも戸惑って。
度々会話に出る故郷と比べる言葉に、やはり帰りたいのか、と何度も思った。
無理矢理来させてしまった。
申し訳ない。
でも、離れられない。
陛下が、好きだから。
泣きじゃくるリルリアンナの両手が大きな手で外されたかと思うと、唇に温かいものが触れた。
「……っ……へい、か……」
「し、今は黙ってろ」
フィリッツの唇が、右目に左目にと優しくまぶたに触れる。
雫を絡め取られるように吸われると、リルリアンナは震えながら薄く眼を開けた。
目の前に、灰緑色の瞳がある。
「リルリアンナ、覚えていないのか?」
「な……に……?」
こつり、と額が合わさった。
「前に言ったぞ? 好きでもない相手には」
「口付け……しな、い」
「嫌いではないから」
「好いてい、く、かの、せい……へい、か……わらわのこと、好き……なの……?」
「ああ」
「はじ、はじめて……うー……」
「あー、泣くな。いや、俺が泣かしているのか」
またしても溢れてきたリルリアンナの涙を、フィリッツが骨ばった親指で拭ってくれる。そしてまた、唇が触れた。今度は深く。
リルリアンナは、フィリッツから少しだけ苦しいキスを教えられた。
息が出来なくて呼吸を求めて喘ぐと、その喘ぎすらも飲み込まれ、また翻弄される。
フィリッツが自分の何かを食べている気持ちになって、もう、とフィリッツの袖を掴むとさらに深くなり、リルリアンナはとうとう、保っていた意識を手放した。
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フィリッツが頭の後ろを掻きながら階段を下がっていくと、ジョセフが杯を片手にカードをひらひらと振った。同じテーブルに座っているソフィアは身動きせずカードの上に突っ伏している。
「おや、リーさまはいらっしゃらないのですか?」
「寝ちまった」
「それは上々」
「そう言う意味じゃない。と、ソフィアもか。また飲ましたのか?」
「飲みたいと言ったので」
「どうだか」
大方ジョセフがカードで負けた方が一杯飲むとかなんとか言ったのであろう。
ジョセフはふんふんとよくわからない鼻歌を歌っている。
厄介な奴に気に入られてソフィアが気の毒だ、とぼやいてフィリッツも宿の主に一杯頼んで空いた席に着くと、程よくルイスも宿へ戻ってきた。
「ただ今戻りました。ソフィア、またですか」
「あー、すまん。ジョセフが飲ませたらしい」
「ついつい、猫さんが可愛くてねぇ」
ルイスが苦笑したのにフィリッツが謝ると、いえ、良い勉強です、後で絞めておきます、と短髪の騎士はソフィアを見ながらさらりと怖い事を言った。
「加減してくれ。ジョセフが悪い」
「乗る方も悪いのですよ」
「鍛えられて強くなったソフィア殿も見てみたいような、しかし猫さんも捨てがたいですし、悩ましいですねぇ」
ひょうひょうと酷いことを言うジョセフに、いい加減にしろっ、と噛み付くフィリッツ。
さらりと正論を告げてフィリッツの杯を受け取り宿主に自分の分を頼んだルイスは、フィリッツに並々と入った葡萄酒を手渡しながらさりげなく言葉を発した。
「リーさま、いかがです?」
「寝た」
「とうとう、ですか?」
「いや、寝落ちた」
「そうですか」
残念そうに肩を落としたルイスを見て、仕方ねぇだろ、とフィリッツは酒の肴に頼んだチーズをかじる。
「ここに来るだけでも疲れているのに、バザールの後は話し合いだ。限界だよ、よく頑張った」
「リーさまは、あの症状が出ましたか?」
「ああ。……あれは、辛いな」
「あの症状、とは?」
ジョセフがすっと表情を変えて聞いてきたので、フィリッツは簡単に先ほどリルリアンナの身に起きた事を話した。
「分かりました。私がリーさまに付く時には気をつけておきましょう。まぁ、よっぽど単独で付く事は無いとは思いますが」
「よろしくお願い致します」
ルイスもそっと目礼をすると、その場合の対応をジョセフに伝えた。
「身体的にはしばらく横になれば呼吸も落ち着き大事には至りません。ただその後、精神的に落ちていかれるので気をつけています」
「そこら辺、俺が側にいたら助けるよ」
「ふむ。私は茶々を入れていればいい、という事ですねぇ。了解しました」
お前なぁ、と呆れるフィリッツに、ルイスはいえいえと笑って、ありがたい、リーさまも喜びます、お願いします、と頷いて手に持っている杯に視線を落とした。
「私もそうですが……クリスさまはじめ、リーさまにも色々な期待を押し付けてしまいました。才の有る方なので余計に」
「ああ、女にしておくのは惜しいぐらいだからな」
「フィリッツさまよりも仕事が早そうですしねぇ」
「うるさいわっ、悪かったな、遅くて」
「ええ、そこは善処して頂きたい所です」
「おいー、ルイス。今日は楽しく飲ませてくれよ、たまの休みなんだ、あっちに戻ったらこうはいかねぇ」
情けない顔でそう訴えるフィリッツに、ルイスは宿主を呼んで二、三本の酒瓶を頼みながら、そうですね、でも、と言葉を繋いだ。
「リーさまとの時間が無くなるのは避けて頂きたい、私としてはそこは時間を取って頂きたいです」
微笑みながらそう言うルイスに、ジョセフは手慰みに持っているカードをひらひらと揺らしながら、だいたい、しっかりしてないフィリッツさまが悪いんですよ、とばっさり言った。
「ぐだぐた言ってないで寝室を一緒にしたらいいんですよ、リーさまの前だからって紳士ぶらずにねぇ。皆さん望んでいるんだから」
「その望まれてる所が嫌なんだよ、無理矢理やるもんでもねぇだろ」
「うわっ、出た、例の癖がっ」
例の癖? とルイスが切れ長の目を見開いたので、ジョセフは聞いて下さいな、とばかりに語りだした。
「この方、今はこんなんですけれども、昔はめちゃモテ、引く手あまたの好き放題やりほうだい」
「やってねぇ!」
「とにかく好きでもない女性達に絡まれすぎたんですよぅ。変にモテすぎた為に天邪鬼になってしまって、初恋もそれで実らず」
「ほほう」
「ばっ、お前っ」
「明らかに気持ちは傾いているのに、好きと言えなくてねぇ。あっちからさんざんアプローチされているのに応えてやらない情けないこじらせ男になってしまいましたよ」
「今回は言ったっ!」
思わず叫んだフィリッツに、側近二人はバッと主人を見た。
「「なんと?」」
二人に覗きこまれて、フィリッツはしまった、と思いつつも逃れる事は出来ず、しどろもどろに応える。
「……ああ、って頷いた」
間髪入れずに左右から盛大なため息が聞こえた。
「っとに情けない。ローツェンの男は皆こうかと思われますよぅ」
「せめて一言、リーさまの望む言葉を言って下されば」
「うるせぇっ 人の恋路に口出しするなぁっ」
「「こっ、恋路っ‼︎」」
ぶはっと吹き出したルイスに、あー……と天を見上げてぱしっと額に手を当てたジョセフは、前途多難ですねぇ、と呟いた。
「しょ、諸所、各位に、その旨、伝えて、おきます」
「ああ、ああ、そうして下さい。お子の誕生はまだまだ当分先ですわ」
震えながら笑いを堪えるルイスに、投げやりのように言うジョセフ。
うるさいっ黙れってんだぁと顔を真っ赤にしながらのたまう主人を肴に側近達の杯はすすむ。
騒がしいテーブルの片隅で動かないもう一人の側近は、ひめしゃまぁ、ともごもご小さく寝言を言ったかと思うとまたすうすうと寝息をたて、宴会後にジョセフが再び寝台に転がしてもぴくりとも起きなかった。




