16 リルー、フィリッツにすまぬ、と告げた。
お腹がはち切れないか心配になる程食べたジルを、夜も更けてしまったので家に送り届ける事にした。
本人は一人で帰れると言ったが、昼間の件もありルイスが私が、と手を挙げたのでリルリアンナは任せる事にする。
フィリッツ達と話しているジルに気付かれないようにルイスを手で呼ぶと、リルリアンナは小声で囁いた。
「お母上の様子を見てきてくれ。ジルがこのような状態なのに放置しているのが、少し気になる」
「御意」
ルイスは少しだけ首を傾けて頷くと、ジルの側へと向かった。
宿の入り口で、明日の朝、ここに集合じゃぞ、と再びジルに念を押して二人を送り出すと、リルリアンナは横にいたフィリッツを見上げた。
「フィリッツ殿、昼間言っていた話し合いなのじゃが」
「ああ、いいぞ、部屋に戻るか?」
「お願いする」
そう言って階段の方へ向かおうとすると、ジョセフがのんびりと声をかけてきた。
「リーさま、我らはここでカードをしているので何かあったら声をかけて下さいねぇ。さ、やりますよ、ソフィア殿」
「え? はい?」
リルリアンナとフィリッツに続いて後ろについていたソフィアはがっちりとジョセフに肩を掴まれて、くるりと反転させられる。
「そうじゃな、ソフィアもたまには息を抜いた方がいい。昼間は……きっとそれどころじゃなかったであろうからな。休憩じゃ。ゆるりとな」
「……ジョセめ」
「ん? 何か言ったか?」
「いーや、何でもない。行こう」
フィリッツが鼻にシワを寄せながらもリルリアンナを先に二階へ上がらせてたので、フィリッツの前髪をくしゃりと掻き上げた際の複雑な表情は見えなかった。
部屋の鍵はフィリッツが持っていたので側で待っていると、ドアノブに手を当てながら、フィリッツが、あー、と呟いた。
「なんじゃ?」
「今から、だけどな」
「ああ」
「例の指南書、禁止」
「ええ⁈ いや、妾もそういうつもりではないけれども……パラパラと頭に巡ってしまってもだめか?」
「だめだ、調子が狂う。その時は俺が……あー、とにかく、今から話すことは真面目な話なんだろう?」
「そうじゃな」
「じゃあ、余計に禁止だ」
何が余計に禁止なのかは分からないが、今から話す事は機密に関わるのでリルリアンナも素直に頷いた。
リルリアンナのその様子を見て、フィリッツもよし、と改めてドアを開いた。
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フィリッツの部屋はリルリアンナ達の部屋と違って右手にベッドがあり、同じぐらいのスペースが左に取られていて、丸テーブルと四脚の椅子がある。
ジルの話を聞く為にソフィア以外の一同が集まっていた時には狭く感じられる程だったが、二人しか居ない空間はがらんとしていてフィリッツが座った席の隣に座りながら、リルリアンナはなるべく近くに椅子を寄せた。
「フィリッツ殿、地図はあるか?」
「アーセナルの地図か?」
「いや、エルムグリンとその周辺が分かる地図を」
フィリッツは少しだけリルリアンナを見つめると、立ち上がり、黙って荷物の中からタペストリー状になった布の地図を出した。
「これは」
リルリアンナは思わず布の端を触って、その感触を確かめると、ふわっと微笑む。
「兄上のじゃ。お懐かしい」
「ああ、クリストファー殿から引き継いだ。紙よりも持ちがいいからと。王宮の外を出る時は必ず持ち歩いていたとも言っていたな」
「よく視察に同行した時は、これを見ながら話したものじゃ」
「やはり、貴女は王女ながら王子としての役割も担っていたのだな」
王の視察への同行、又、王の目や手足となって単独での視察。ローツェンならば皇太子以下の王子が担う役だ、と続けたフィリッツにリルリアンナは頷く。
他国に深窓の令嬢として名が通っているのは、リルリアンナ自身が王宮にほとんど居なかったからだった。
「兄上に頼まれてな。即位して直ぐに言われたのじゃ、十年、自分が王をやるが、十年経ったら譲ると。じゃから、勉強しろと」
「何故譲る事が前提なんだ? 途中で世継ぎが出来て王位継承順位が変わるかもしれないだろ?」
フィリッツのもっともな言葉に、リルリアンナは顎に人差し指をあてて少しだけ首を傾げた。
「分からぬ。兄上ははなから世継ぎは出来ぬと思っている節があった。それが何故だか分からぬが……とにかく妾に国を守る事のいろはを教えて下さった。今日はその事について話したい」
「分かった」
フィリッツが承諾し、改めてこちらを見たのを確認して、リルリアンナはふー……と息を吐いた。心臓の音が先ほどよりも早くなっているのを感じる。
(大丈夫じゃ、語れるはずじゃ。もし、語り切らなくても、また時間を作ってもらえばいい。落ち着け、落ち着くのじゃ)
何度か大きく深い息を吐いた後、リルリアンナは語り出した。
エルムグリン王国は北西にローツェン王国、海を挟んで南東にリルリアンナの祖父母の国、天色国、そして〝天を衝く山〟山脈を挟んで北東に位置するボルカベア王国に囲まれた国だ。
先々王、先王の治世の時代は戦もなく平和に暮らしていたが、脅威が無いわけではない。
「トラフィーグ山に阻まれてこちらへ来なかったボルカベアが海から少しずつ小競り合いを繰り返していてな」
「ボルカベア王はなんて言ってきている?」
「海賊の仕業だと。ボルカベアがやっている事ではない、とな」
「ブクモールと一緒だな」
「ローツェンも襲撃されていたのか?」
「ああ、俺がいたバロック領にな。ローツェン側のトラフィーグの裾野は比較的低いから、馬で越えられるんだ」
フィリッツはそう言うとテーブルに広げた地図の北東を指した。
ローツェン王国とブクモール共和国の間に描かれている山脈は、わずかに海岸線と山の間に隙間がある。おそらくその端から入ってくるのだろう、とリルリアンナは眉をひそめた。
「ブクモール側は少数民族のやる事だから関知していない、とね。影も放ってはいたのだが行き道が厳しいし、旅人自体が少ないから目立つ。俺が居た頃でもあまり有益な情報は持って来れてはいなかった」
「ボルカベアもだ。こちらはお互い海からしか行き来が出来ぬ。船に乗り込むとなると影といえど目立つしな」
「まぁ、ブクモール、ボルカベア側からもそれは同じ条件だ。お互い届いている情報は微々たるものなんだろう」
「そうじゃな。おそらく大規模な戦争は早々には起こらぬだろう、と踏んだ兄上はゆっくりと国の防壁を築いていった」
リルリアンナは指をさしながら、とつとつと話す。
「陸続きのローツェンとの友好関係の強化を図りつつ、治水を整えていった。王宮を中心に視野を広げると、ローツェン側にリーヌ川、ブクモール側のラリア川が流れている事は知っておろう?」
「ああ、自然の川に守られているな」
「兄上はその二つの川の本流を中心に、分かれた支流にそって小さな拠点をいくつも作った」
リルリアンナはゆっくりと上から順に指で地図に記載された支流にそって、拠点の位置をなぞる。拠点は、橋と共に築かれていた。
リルリアンナの指が、やがて半円に近い形で押されていくにつれ、フィリッツは半分もいかないうちに、短く叫んだ。
「一巡して天然の防壁か!」
「そうじゃ、こちらが一番外側の守り、こちらが二番目の内側、最後は王宮を囲むように」
大規模な城壁を作るのではなく、細かく拠点を置くことによって、他国に知られる事なく、いざという時には橋を封鎖して足留めをして川を掘に見立てて防壁とする。
「騎士、兵士が守りを固める間に住民は馬と共に内側へ移動。国策として女性に馬に乗れる様に勧めているのはこの為じゃ」
「王宮の周りが城壁もなくひらけているのはその為か……ずいぶん無防備な、と思ったが。しかし最終的に王宮の側の土地に入れたとして、備蓄はないだろ?」
「ない。囲ったとして持って三日じゃ。その間に戦いに決着をつける」
フィリッツは唸って腕を組んで地図を睨んだ。ルイスから国軍の規模は告げられている。おそらく、仮としてローツェンから攻められた場合を想定して考えているのだろう。
だんだんと険しくなる顔を見ながら、リルリアンナは鼓動が過剰に早くなっていくのを感じて、もう少しだけ持ってくれ、と自分自身に願った。
「三日では終わらない」
「終わらせる、その為に……やっとピルーを拠点に配置できるようにしたのじゃ……最後は妾の代わりが出来るように、影を……天色国への知らせが届くように……」
「三日間の間に天色国からの援軍待って挟む、か……リルー? おい、どうした?」
リルリアンナの様子がおかしいのに気が付いたのだろう。フィリッツが椅子から立ち上がってリルリアンナの前髪を上げる。
リルリアンナは短く息をしながら胸をぎゅうと押さえた。
「顔が真っ青だ、ソフィアを呼んでくる」
「いい……いつもの、こと……」
リルリアンナが腕を掴んで止めると、フィリッツは直ぐにリルリアンナの両膝に腕を入れた。
「リルー、俺に身体を預けろ」
「……すま……」
「いいから。こちらに傾けてくれるだけでいい」
リルリアンナが頷いてフィリッツの方へ身体を預けると、背中を支えていた大きな手に左腕を軽く握られてゆっくりと抱き上げられた。
そしてあまり揺れる事もなく移動し、ベッドに寝かされる。
「少し胸元開くぞ? 呼吸が楽になる」
頷く間もなく大きな手が器用に上から順に二つだけボタンを外した。
リルリアンナは大きく息を吸って吐いた。
ゴツゴツとした手が自分の額を覆う。
目も鼻も隠れてしまうその手が優しくて、リルリアンナは目を瞑り、だんだんと呼吸と共に鼓動が落ち着いていくのを感じていた。
ああ、やはりこの方は
今も昔も変わらず
優しい
深い吐息と共に笑みが浮かんだのだろう。
そっと手は離れ、代わりに心配そうなフィリッツの顔が見えた。
「すまぬ……落ち着いて、きた。やはり陛下の手は、今も昔も変わらず、妾の癒しじゃ」
「うん?」
「初めてお会いした時も、こうやって、癒してくれた」
「そう、だったか?」
「ふふっ、陛下は覚えておらぬか。そんなもんじゃな」
リルリアンナは少しだけまた笑うと、やはり、今もって治らぬな、とぽつり、呟いた。
フィリッツがリルリアンナの額に薄っすらと浮いた汗をハンカチで拭きながら、何か原因が? と聞いてきたので、リルリアンナは力なく頷いた。
「国防の事を頭に巡らすと、こうなってしまう。いわゆる拒否反応じゃ。これが……妾が女王になれなく、陛下にわざわざこちらに来て頂く事になった本当の理由じゃ」
リルリアンナはゆっくりと首を傾けると、フィリッツの灰緑色の瞳に、すまぬ、と告げた。




