15 リルー、自戒し、感謝して食べる。
言い訳もせず出て行ってしまったフィリッツを見送った後、リルーはいつか絶対問い詰めてみせる、と肩をいからせながら部屋へ戻ると、ソフィアがベッドから起き上がってこめかみを抑えていた。
「妃……リーさま、これは一体……」
いつもは一つにまとめている栗毛色の髪は解かれ、眉をひそめた顔に前髪が頬の方まで降りてきて影をつくっている。
「ああ、覚えておらぬのじゃな。大事ない、酔っ払っただけじゃ」
リルリアンナがサイドテーブルに備え付けてある水差しから一杯の水を渡すと、ありがとうございます、と丁寧に頭を下げて、こくりこくりと一度に飲み干した。
「ふう……うわ、お酒臭いですね。そんなに飲んだ記憶はないのですが」
「強い酒を飲んだらしいぞ。まぁ、次に気をつければ良い」
「ご迷惑をおかけしました」
ソフィアがいつもの冷静沈着な青い瞳に戻ったのを見て、リルリアンナは内心、酔ったらあの状態になる事を言おうか迷う。
(いや、やはり知られたくはないだろうしな、黙っていよう。妾なら、あんなにゃんにゃん状態になると知ったならば、誰にも顔向けできぬ)
そう心に留めて頷くと、リルリアンナは風呂に先に入る事になった旨を告げ、着替えを袋から出しているソフィアに、デートから少年を拾って今に至る事の顛末をかいつまんで聞かせた。
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宿の風呂場は王宮と比べると小振りだが、香りの良い木で作られており、かけ湯をし、身体を洗って湯殿に滑り込むと、リルリアンナもソフィアも思わず幸せのため息が出た。
「ソフィア、肩に青アザがついておる」
「ああ、大事ありません。先日の訓練で避けきれなかったものですから。少しすれば治ります」
「そうは言っても、おなごなのに……」
乳白色の上気した肌に浮かび上がる青紫色の線は痛々しく、リルリアンナは触るに触れず湯水から出した手を、またぽちゃりと落とした。
「女で剣士だからこそ、こうして妃殿下のお側でお守りが出来ます。私にはこの傷も誉れなのです」
よく見れば二の腕や肘から下に小さな切り傷がうっすらと浮かび上がっている。常に何かしらの傷を作りながら生きているのだろう。
リルリアンナはそっと自分の手を見る。
お忍びで帯刀はすれど、ほとんど触った事のない手は白く柔らかい。リルリアンナは黙って隣にいるソフィアの手を取って自分に向ける。豆を何度も潰したであろう、固い手の平に自分の手を重ねてぎゅっと握った。
「ソフィアが守ってくれておるから、妾は安心して何処へでも行ける。いつも、感謝している」
「リルリアンナさま……」
「なるべく、ひどい怪我のないようにな。そなたも嫁に行かねばならぬゆえ」
「いえ、私は別に」
「ダメじゃ」
「え?」
「妾がいつか子供を産んだ時、ソフィアの子に遊び相手になってもらわねばならぬ。ちゃんと嫁にいけよ?」
「う……善処します」
顎のラインで切りそろえた濡れそぼった栗毛が額にかかると、途端に女性らしくなるソフィア。だれか気付いてくれぬだろうか、とリルリアンナは願いながら、長い一日の疲れを湯殿に浸かりながらゆっくりと取った。
ソフィアに丁寧に髪の毛を櫛解いてもらってから、リルリアンナは二つに三つ編みにし、頭皮に添うように整えた後に地毛で作ったカツラを被った。
湯上りの身体はだるく、今から夕飯を食べに食堂へ降りねばならないのが面倒くさかったが、お腹の虫も鳴り出してリルリアンナとソフィアは手早く着替えて荷物を部屋に置き、階段を下がっていった。
「なんじゃ、もう食べておるのか」
「女の長風呂には付き合ってられない」
「あの子はちゃんと洗ってやったのか?」
「姉ちゃん、あの子じゃねぇ、ジル。ジルってんだ」
丸テーブルの端で串刺し肉をぱくつきながらそう元気よく言うのは、先ほどの少年だ。
汚れて灰色のように見えていた髪は本来の銀色に輝いている。
「ね、姉ちゃんなどと、このお方をどなたと」
「良いのじゃ、ソフィア。姉ちゃんと呼ばれる事、滅多にないでな。気に入っておる。これ、こちらの姉ちゃんはソフィアという。よろしくな」
「よろしく、美人の姉ちゃん」
「び、美人などと、言われた事、ないです」
「おや、そうですか? 普段は涼やかな美人さんですからねぇ。今晩は見目麗しく女性らしいですが」
「な、何も変わりはしませんっ」
普段一つでまとめているソフィアの髪が降りているので、ジョセフが茶化してそう言っているのをルイスがにこにこと見守っている。
リルリアンナとソフィアが席に着くと、ルイスとジョセフがすっと立ち上がってそれぞれの皿に大皿に乗っているものを取り分けてくれた。
ソフィアがジョセフに恐縮していると、ジョセフはまぁ、お詫びのようなものですから、とのんびりと言った。
不思議そうな顔をしてジョセフを見上げているソフィアを見て、少年以外の男達は顔を伏せて笑いを堪えている。
「いいのじゃ、ソフィア。たまには男性に取り分けてもらうのも乙なものじゃ。そのまま受け取ればよい」
しゅっと目を細めて一同を見回すリルリアンナに、ソフィアが心配そうに顔を向ける。
「リーさま? 怒っておられるのですか? お珍しいです」
「む、少しな」
「ま、まぁまぁ、これでも食べて。ほら、このパイのやつ、美味しいぞ」
そう言ってフィリッツは自ら率先してリルリアンナの皿にミートパイを乗せる。
「ああ、フィリッツ殿! 妾は肉はそれぐらいで良い、もう十分っ」
山のように積まれた焼き肉をさらに皿に乗せようとしたフィリッツの手をリルリアンナは掴んで止めた。
「え、肉、嫌いなのか?」
「いま食べられるように頑張っている所じゃ。皿に乗せられたものは食べるとイレーナと約束をしてしまったのじゃ。いや、内緒で残す事もあるのじゃが、あっ」
「リーさま、いつ残されたのです?」
ぴくっとソフィアの眉が反応したので、い、いや、いつか忘れてしまったな、はは、と笑い飛ばし、手前のミートパイに手を付けつけようとした時、ジルがぽそりと、残すほど食べ物があるんだ、と言った。
リルリアンナはハッとしてジルを見る。
ジルは猛然と食べていた手を止め、いま自分が食べている串指しをぼんやりと見ていた。
「すまぬ、ジル。これからは残さぬ」
リルリアンナは思わずそう口にしてしまって、しかしその言葉もまた、相応しく無いような気がしてぐっと唇を噛んだ。
(ああ……きっとそうじゃない……でも、なんと言ったらいいのだ。言葉にならぬ……!)
「……や、姉ちゃんがなんだか身分が上な人っぽいのは分かってるからさ……うん」
それだけ言って黙ってしまったジルに、横の席にいたフィリッツがぐしゃぐしゃと小さな頭を撫でる。
「ジルはこれからだ。これから働いて腹いっぱい食べられるようにすればいい。そうだろ?」
「……うん、そうだね。働けば、ちゃんと食べれる」
「そう、その為にも今、ちゃんと食べるのですよ。ひよひよヒョロヒョロは女性にモテませんしねぇ」
「なるほど。モテる為にフィリッツさまは身体を鍛えたのですね。やっと納得できました」
「やめろ、そんなつもりで鍛錬したんじゃねぇ!」
フィリッツの言葉でジルの目に力が戻ったのをみて、ジョセフ、ルイスがするすると言葉を紡いでいく。
俺、たくさん食べて強い男になるっ、とジルも頷いて、またガツガツと食べ始めた。
そうだ、モテますよぅ、フィリッツさまのように、と男達が騒いでいるのを見ながらリルリアンナは胸を撫で下ろして自戒する。
(配慮が足らぬ。ジルがおるのに……いや、そもそも肉を嫌っておるのがいけないのじゃ。……感謝して食べよう)
黙々と食べ始めたリルリアンナを見てソフィアも頷くと、主人と同じように取り分けて貰ったものを余す事なく端から順に食べていった。




