11 リルー、至近距離に鼓動が跳ねる。
通勤、通学の方、閲覧注意。
モダ甘です。お顔にお気をつけて。
ルイスがマーチン食堂の女将さんから仕入れた情報により、この街の中央市場にバザールが立っているというのを聞いてそこに行くことになった。
マーチン食堂から宿とは反対方向へ歩いていくと、だんだんとそれまでまばらだった人の流れが前へ前へと出来てくる。
通りの両側にある建物が切れると、喧騒とともに視界に広がる青空と、色とりどりの露店の布屋根がはためいていた。
バザールの入り口まで付いてきた側近達は、一様にでは、と二人に声をかけた。
「お気をつけて」
「妃……リーさま、迷子になりませぬよう」
「なるべくゆっくり回って下さいねぇ」
ルイス、ソフィアの言葉の後にジョセフが本音をのんびりと言ったので、フィリッツ以外は吹き出した。
「適当にする、早いか遅いかなんて知るか」
「行ってくる! ではなっ」
側から見れば主人と側近、という出で立ちの二人が喧騒の中へと入っていくと、残った三人は顔を見合わせて、呑みますか! とバザールの入り口近くにある小店へ入っていった。
ランプシェード、乳白色の陶器、色とりどりの衣服、各々、一つの品物に特化した店が所狭しと並んでいる。
奥へ行くと鳥、豚、牛の肉類を売る店や、豆、チーズなどの乳製のもの、パンの粉などが量り売りで売っていた。
リルリアンナがここらでは珍しい、干した果物が並んでいる店を覗いていると、フィリッツが後ろでボソッと呟いた。
「一つ一つの店は特別なようだが……土産物屋が少ないな」
リルリアンナは、ぶどうとオレンジの皮ごと干した物を一袋ずつ買うとフィリッツを見上げた。
「アーセナルの中でもこのリールは三番目に大きな街なのじゃが、街道と街道の狭間にあるので行商が来づらいのじゃ。ただ人はいるので日常品を売る店は多く出るとは思う」
「橋が渡ったらまた様変わりしそうだな」
「ああ、人の流れが出来て、潤うと思う」
そう言って大ぶりのぶどうを干したものを一つ口にすると、噛むほどにほのかな甘みが増して、リルリアンナは目を細めた。
「美味いか?」
「味のある甘さじゃ。フィリッツ殿も一つ」
と袋に手を入れた時、リルリアンナの脳裏にパラパラパラと〝ホニャ=ラーラの指南書〟の文言が流れ始めた。
恋人の気を引くためのレッスン その一
一口サイズの食べ物を食べさせてあげよう!
あーんして? とおねだりするのがポイント!
(あーん、あーん……なんじゃ、この恥ずかしさ……いつぞやのクッキーを差し上げた時とそう変わらぬ筈なのに、あーん、がつくだけで、こうも、恥ずかしいものなのか⁈)
〝ホニャ=ラーラの指南書〟を使い始めた頃、執務室にこもっているフィリッツにクッキーを持って行った事がある。
その時は、手作りクッキーを焼いて食べてもらおう、という文言で、あーん、は無かったのだ。
(恋人になったらやってみよう、と、恋人の気を引くレッスン、の間にすごく差があるような気がしてならぬ……どうしたらいいのじゃ……)
リルリアンナが袋に手を入れたままピタリと止まってしまったので、フィリッツが、どうしたのか、という表情でこちらを見ている。
リルリアンナの耳に入ってくるのは、ガヤガヤとした人々の声。
こちらを見ている訳では無いとしても、流石のリルリアンナもこの人混みの中で食べさせる、という行為をやろうとは思えなかった。
「フィリッツ殿、ちょっと、こちらに」
リルリアンナはフィリッツの手首を掴むと、屋台と屋台の間の隙間をぬって、店の裏手に向かう。
裏通りは出店の関係者が少しうろついていたが、表の喧騒とは違って、ふわっと爽やかな風が通るほど穏やかな空気だった。
「どうした? 人に酔ったか?」
「そ、そういう訳ではない」
「そうか? もう少し木陰に入るか?」
フィリッツが裏通りにある街路樹を指すが、リルリアンナは大丈夫じゃ、と首を振った。
もう、これ以上場所を変えればとても出来る気がしなかった。
意を決して、フィリッツを見上げると、心配そうな灰緑色の瞳がこちらを見ている。
ドクッ と、鼓動が跳ね上がった。
しばらくぶりの至近距離に、リルリアンナはすぐに目を逸らしてしまう。
(こんなに近づくの、久しぶりじゃ……どうしよう、陛下の顔が見れない……! このまま、このままあーん、なんて、無理じゃっ)
「っ陛下! 少し耳を貸してほしいのじゃがっ」
「うん? こうか?」
フィリッツがかがんだ事により、色の鈍い金髪と共に少し上の方が尖った形の良い耳が目の前に来た。
リルリアンナは何度も浅く呼吸をしながら、小さく小さく言った。
「…………あん、して」
フィリッツは耳を押さえながらばっと身を起こすと、比較的大きな目をこれでもかと見開いてリルリアンナを見た。
「ななななに? なにを? はい?」
「あの、な、お口を」
「く、口? くちを?」
「あんって、開けてほしいのじゃ……」
……はぁ? とフィリッツが呆然と口を開いたので、リルリアンナは、あっ、今じゃっ、と袋から出した干したぶどうを一粒、唇に押し込んだ。
もぐ、と反射的に口をつぐんで咀嚼しているフィリッツに、リルリアンナはほう、と安堵のため息をついた。
「本当に、世の恋人達というのは……こんなにも恥ずかしくトキトキしてしまう事をいつもやっているとは、脱帽じゃ」
フィリッツは、先ほどから一転、糸のように目を細めながら、例の、アレか、びっくり、させるな、と咀嚼しながらボソッボソッと呟く。
「すまぬ、突然口に物を入れたからな。一応、そっとは入れてはみたが」
「まさか外でしたいのかと思った」
「何を?」
「何でもない。口が滑った。気にするな。あー! すまないがっ……少し喉が渇いた。何か水物を、買ってきてくれないか」
「ああ、甘いもの食べると喉が乾く。わかった、すぐに」
リルリアンナは頷くと、表通りに出て見渡すと、果物を売っている屋台を見つけた。
中へ入ると、リルリアンナの思った通り、店の脇に木製の手回し絞り機があり、店主に対価を払ってその場で買ったりんごを絞ってもらった。
二つ目の杯を待ちながら見るとも無しに通りを眺めていると、このクソガキぃぃ という太い声が聞こえたかと思うと、風のように目の前を子供が通り過ぎた。
あっけに取られてその後ろ姿を見送っていると、またアイツかぁ、最近多いな、と後ろで店主がチッと舌打ちをした。
「店主、何事か?」
「盗みだよ。この所バザールが来るたびに中に入ってちょろまかす子供がいるんだ。ここの街の質も悪くなったのかねぇ」
「この街の子供か?」
「そうらしい。他の街に行った時はこんな事ないからね。はいよ、二つ」
「ありがとう」
両手で杯を待ちながら表通りに出てみても先ほどの子供は影も形もなく、リルリアンナはこの件を頭の片隅に置きながらフィリッツの元へと戻ると、彼は屋台の裏手にある街路樹の下に居た。
「陛下、今、戻……ど、どうしたのじゃ、おでこが、かなり赤くなっておる。ぶつけたのか?」
「……そのようなものだ」
「何かで冷やした方が……」
明らかにぶつけたと分かるぐらい赤くなっている跡を心配して、もう一度表の方に戻ろうとするリルリアンナの手首をフィリッツが掴んで止めた。
「いい、この杯でいい」
リルリアンナの手首ごと自分の額に近づけ杯を当てて涼を取るフィリッツに、リルリアンナは少しだけ胸をトキトキさせる。
この間からフィリッツの大きな手が自分の手を包むと、嬉しいようなくすぐったいような、何とも言えない気持ちになるのだ。
少しは恋人になれたのだろうか。
自身の心の変化に戸惑いながら、リルリアンナはそっと横を向いてこくりとりんごの果汁を飲んだ。
この冷たさが、一瞬にして舞い上がってしまうトキトキをおさめてくれますように、と願いながら。




