プロローグ
「恋人とはなんぞや?」
呟いた王妃の言葉に、新米侍女アニタはカラーンと持っていたトレイを落とした。
王妃は艶やかな黒髪が前の方へ垂れるのもそのままに、先ほどから熱心に分厚いピンク色の本を読んでいる。
重厚な背表紙に金字の箔押しで綴られているのは〝ホニャ=ラーラの指南書〟
東の海に囲まれた国から到来した舶来物だ。
「し、失礼しましたっ」
「珍しいの、アニタ。して、恋人とはなんぞや? ここに書かれておるのは全て枕に、恋人とほにゃららする為には、と書かれておる」
アニタはこくんと唾を飲むだけで言葉にならない。
先王の侍従から最近王妃がよく読んでいる本についてと申し送りはされていた。
しかし内容がどうも恋を成就させるあれこれが書いてあるらしく、妃殿下から質問が出たら全力で応えるように、とメモまで貰っていたのにも関わらず、自分も恋をしたことがないのでかける言葉がどうしても出てこない。
みるみる顔面が蒼白になっていく同僚を見るに見かねて、壁に控えていた女騎士がさっと歩み寄り片膝をつく。
「恐れながら申し上げます。恋人とは想いを寄せる相手の事かと。妃殿下さまにあられましては、陛下がそのお相手にあらせられます」
「ほう、陛下の事か。それはまた……うむむ」
王妃はぐーに握った手を形の良い顎に当て、綺麗に整った眉間にしわを寄せる。
ここに書いてある恋人、という文字を陛下と、という文字に変換すると、なかなかに手厳しい案件であった。
「今日の陛下の予定は?」
はっ、と女騎士は直立不動の姿勢に戻り、気を取り直したアニタから手渡されたボードを見ながら王の今からの予定を口頭で並べた。みっちりと就寝近くまで予定が入っている。
「うーむ、おそらく今日も閨の渡りは無いな」
「即位して間もないですから」
「さもありなん」
森と草原の国エルムグリン王国の即位式が無事成立して一週間が経った。
先王である兄夫婦の間に世継ぎが出来なかった事を理由に王位を譲渡したいという話は前々から出てはいて、急遽元々婚約者であった山と渓谷の国ローツェン王国第二王子であるフィリッツ殿下を婿にする事で決着したのである。
馬車の窓からぶんぶんと手を振りながら、後はよろしくーと嬉々として南の領地へと向かった先王である兄の顔が脳裏に浮かんだ。
あの能天気な兄でさえ、十年前に即位した時には多忙を極め、先王妃さまへの渡りは十日後とも二十日後とも噂されていたのだ。
「ふむ、埒が明かんな。よい。妾が行こう」
「は……」
王妃の行き先が分からずに、は、と応えながらもしばし口をつぐんだ女騎士に、王妃はなんじゃ、分からんのか、と呆れたように言って本を閉じた。
「陛下に会いに、だ。今は何処に?」
「は、はっ! おそらく執務室にてご政務に励んでおられるかとっ」
「相、わかった」
王妃は鷹揚に頷くとすく、と立つ。
プリンセスラインのドレスを歩きやすいように整えすらりとひらめかせると、すたすたと足早に部屋を後にした。
王の執務室に近づくと、近衛騎士が王妃を認めて慌てて敬礼をする。
「ああ、よい。陛下としばし話をするだけぞ。ああ、お前たちもよい、部屋に戻っても。うん? そうもいかぬか? まぁ、そうか。では部屋の外でな。恋人とは二人きりになるものだと指南書に書かれておったのでな。邪魔をするなよ?」
ぽかーんと口を開けている近衛騎士二人と慌てて王妃について来た女騎士と新米侍女に、ではな、と頷いて王妃は一人執務室に入った。
ぱたり、と後ろ手で締めたドアの音に彼の人は気づいていない。
即位式以来に見る彼は、すこし癖のある鈍色の金髪を時折かきむしりながら目の前の書類を睨んでいた。
王妃は高鳴る動悸をなんとか静めようと浅く息をする。
しかしなぜか動悸は収まらず、さらにトクトクトクトクとまるで追い立てられるように耳元で鳴る。
(こ、このようにトキトキしていたら気付かれてしまうではないかっ、妾の心臓はどうなってしまったのかっ)
落ち着け、落ち着くのじゃ、と下唇を噛んで先程の指南書の文面を思い出す。
恋人になるためのレッスン その一
好きな人に気付かれずに十歩近づけたら恋が成就するかも!!
頭の中で三度復唱し、少しだけ治った動悸とともに、そろり、と少しだけドレスを摘んでつま先から足を伸ばす。
(一歩、二歩、三歩……)
王妃は足音が立たないように忍ばせて、真正面に位置する執務机へとそろそろと移動する。
半月前、こちらに移る為に使節団と共にやってきた王と十年ぶり対面し優しい方だと思ったが、即位の後一度も妻に顔を見せないのに、会えて嬉しかったのは自分だけだったのだと気がついた。
それでも、陛下は我が国の王になってくれたのだ。
妾が頑張らねばなんとする。
蹴ることも出来た話を受けてくれたのじゃ。
(六……七……)
たとえ妾の事を好いてはおらねども。
この国の為に。皆の為に。
そして妾自身の為に。
(ハ……九、十歩っ! 気付かれておらぬ!)
王妃はさらに高鳴る鼓動と共に陛下の側へと一歩一歩近づく。
(素直に、想いをぶつける、もう、半月前の失敗は、繰り返さぬっ)
ともすれば息が荒くなってしまうのをなんとか抑えながら、隣国まで麗しきと名高い王妃リルリアンナ・バイオレット・エルムグリンは夫の元へと向かうのであった。
お読み下さり、ありがとうございます。
本作はアンリさま主催、告白フェスタに出品しました短編、
『麗しき王妃、「恋人とはなんぞや?」と呟く。』の連載版です。
ありがたくも沢山の方に読んで頂き、また、続きを、というお声を頂きまして連載をさせて頂きます。
なにぶん若輩なのと、現実的に執筆時間が思うように取れない為、更新が週一になっていくと思います。
(8月の間は早めの更新になります)
はじめましての方、こんにちは、なななんと申します。よろしくお願いいたします。
短編から引き続きこちらに来て下さった方々、ありがとうございます(ぎゅむ)
あなた様の感想、活動報告でのお声かけ、ブクマ、評価、その全てが、やってみよう、という勇気を頂戴しました。
連載版も楽しんで頂けるように、がんばります。
無事名前もつきました(笑)
よろしくお願いいたします。
2018.7.21 なななん
****
ブーバンさまから素敵なタイトルロゴを頂きました!
冠に置かせて頂きます。
ブーバンさま、ありがとうございました!
2018.8.10 なななん