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「恋愛小説が書きたい!」後編5

 前回は、『ジェーン・エア』について糞味噌にこき下ろして何度も読みきれなかった溜飲を下げただけに終わった。僕の八つ当たりである。

 眉をひそめた読者の方も多かったと思う。不快な思いをさせて申し訳ない。

 そこで、今回は、『ジェーン・エア』の魅力について語りたいと思う。

「どの口が語るか」といったところであるが、読み切って初めて知る魅力というのもあるのである。


 思うに、結局、僕が『ジェーン・エア』を読みきれなかったのも、男にありがちな「ヒロインは可憐で保護してあげたい美女でなければならない」という願望があったせいだろう。

 ひとが「恋愛」をしたいと思うのであればどんなヒロインでも成り立ちうるのであって、「ヒロインは可憐で保護してあげたい美女でなければならない」わけではない。これは「恋愛小説」に対する男の偏見というべきだろう。

 ただ、言い訳をすれば、男はとかく相手に必要とされたいと願いがちだから、ついジェーン・エアのような強い人間を敬遠してしまうのだ。仕方がない。

 言い訳はこれくらいにしておこう。


 男の偏見を無理に払って『ジェーン・エア』を読むと、これが女性の成長物語ということがわかる。それも、後半のロチェスター氏と出会う段階までにジェーン・エアは完全な自立した女性に成長しており(なんと19歳で!)、最終段階に達したヒロインが自ら相手と対等な立場での「恋愛」を望み、かつ掴み取るというお話であることがわかる(このことへの反論は許されない。作者のシャーロットがわざわざ一人称形式を用いて主人公のジェーン・エアの一挙手一挙足について細かな心理的説明を加えているからである。そういう意味では読み手に対して極めて親切な小説といえる)。

 つまり、よくある「恋愛小説」のように異性との出会いを通してヒロインが成長してハッピー・エンドするのではなく、成長しきった女性が大人の「恋愛」をするというお話なのである。


 そんなの、前回説明したように『ジェーン・エア』が不倫話であるとするならば当然だろうと驚かれない方もいるかもしれない。

 しかし、『ジェーン・エア』は、父性に対して未熟な憧憬を抱いたままの若い女性が年上の上司と情交を重ねるというありふれたお話ではないのだ。


 ジェーン・エアは自身が既に精神的な強者であり、より強い精神の持ち主にのみ惹かれかつ「特別視されたい」と望んでいる(たとえば、小説では、「ダイアナは、表情にも話し方にも、一種の威厳が備わっており、見るからに意志が強そうであった。彼女のような威厳のある人に服従することに喜びを感じ、自分の良心と自負心の許す限り、他人の積極的な意志に従うのが、わたしの性質であった」と主人公は自己を分析すると同時に、「威厳のある」美男な牧師セント・ジョンに対しては惹かれはするものの決して自分を「特別視」しない男として拒絶している。言うまでもないことだが、このセント・ジョンに対する拒絶は作者シャーロットの父パトリックに対する確執を克服した勝利宣言でもある)。主人公はかなりストイックであり、相手の容貌の美しさや財産など見向きもしない(その証拠にロチェスター氏の最初のプロポーズに対してジェーン・エアは宝石も華美な衣服もなにも望まない)。ただただ強者からの愛情のみを追求する。そして、そのためには積極的行動も辞さない(最後にジェーン・エアは自分からロチェスター氏のもとへ駆けつけ求愛する。当時のそれまでの小説ならば、それは白馬の王子の役割であった)。強者である彼女は白馬ノ王子サマがやってくるのをじっと耐え忍んで待っているようなことは絶対にしないのだ。

 だから、『ジェーン・エア』は武芸者がより強い相手を求めて遍歴するような精神的な戦いの記録であって、主人公はほぼすべての登場人物をバッタバッタと切り捨てて強者ロチェスター氏に対して一直線に進んでいく。

 その行程たるや、ジェーン・エアにとりロチェスター氏への道を遮るものに対しては相手が弱者であろうが強者であろうが関係ない。冷静な観察眼と強靭な論理ですべての相手を一蹴していく。まさに人に出逢えば人を切り、仏に出逢えば仏を切る、という凄まじいばかりのものであり、一種独特の爽快さがある。

 たぶん、これがこの小説の魅力なのであろう。抑圧され気味の思春期の少女たちに人気があるのも頷ける。


 例を挙げてみよう。

 行き倒れになりそうなジェーン・エアをダイアナたちが救ってから4日目のこと、ようやくベットから起き上がったジェーン・エアがダイアナたちの下女ハンナ(助けを求めたジェーン・エアに対して女乞食とみて玄関払いしたおばさん)と対決するシーン。

「どうぞ、勘弁して下さいよ」と謝る老女にジェーン・エアは追い打ちをかける。


 ―わたしは、しばらく、むっつりと黙り込んでいた。

「あまりそうわたしのことを、ひどいやつと考えないで下さいましよ」と彼女は言った。

「でも、わたしはそう思います」とわたしは言った。「なぜかと申しますとねーあなたがわたしを泊めてくれなかったから、あるいはわたしをかたりだと思ったから、そういうのではなくて、あなたがさっきわたしを、家もなければお金もないということを非難の材料になすったからです。昔から、立派な人たちのなかにも、わたしのように無一文だった人が、いくらでもあります。あなたがもしキリスト教徒なら、貧乏を罪悪だなど考えてはいけませんわ」

「もうけっして考えることではございません」と彼女は言った。「セント・ジョン様も、そうおっしゃいます。わたしが、まちがっておりました(略)」


 もうすでに老女の主人公への扱いは立派なご婦人のそれに変わっていたのであるから、普通の人ならここまで徹底したことはしない。ツルゲーネフの「わたし」であれば肩をそびやかせて以後老女に目もくれないであろう。

 しかし、ジェーン・エアはそんなことでは許しはしない。自分が誰に向かって戦いを仕掛けたのかを相手の論理(この場合、牧師に仕える老女としての立場)を使って完膚なきまで攻め抜いてはっきりと分からせる。たとえ体調が悪くともそこまでしないと気がすまない。ジェーン・エアにとっては自立した女性であることがこの世で一番の価値をもつものであって、それを無理解に馬鹿にされることは彼女にとって喧嘩を売られたに等しい。たとえ相手がどんな人間だろうと、彼女は「馬鹿にするならあなたの価値観を言ってごらんなさいな。くだらない価値観なら承知しないわよ」と対決して叩きのめすのである。


 そして、この対決・勝利の構造は男性のプロポーズにおいても変わりない。

 たとえば『自負と偏見』の金持ちで高潔な美男子ダーシーであっても、ジェーン・エアにその持っているプライドのつまらなさをこれでもかというほど当てこすられて撃沈するのがせいぜいであろう。ジェーン・エアは自分よりも精神的な強者の「愛」しか求めていないのだから、未熟なお坊ちゃんでは到底歯牙にもかけてもらえないのだ。


 小説の中でジェーン・エア唯一の苦戦はセント・ジョンとの対決であった。


 セント・ジョンという男はギリシャ彫刻のような美男子だが(そんなことにはジェーン・エアは価値を置いていない)、仕事人間であり、辛ければ辛いほど神の栄光のために働けたと満足する牧師である。世間的にはうらやまれるもの、聡明な頭脳、美貌、若さ、そこそこの家名と財産などをすべて持っているのに、彼は自身の頭の中で描く理想像(殉教者)そのものになりたくて渇望し、ジェーン・エアと同じくそれ以外のものをすべて投げ捨てている。

 

 このある種独特の威厳のあるセント・ジョンのプロポーズという対決において、緒戦はまずいつものようにジェーン・エアが圧勝する。


 ―「要するに彼は、ひとりの男としてわたしを強制的に服従させたかったのだ」と分析した彼女は言い放つ。

「わたしは愛についてのあなたのお考えを軽蔑します」「わたしは、あなたが与えてくださるという、まがいものの愛情を軽蔑します。そうですとも、セント・ジョン、あなたがそんな愛をくださるとおっしゃるのなら、わたしはあなたを軽蔑します」(『赤と黒』に描かれているように、当時、男がこの言葉を口にするのは強制的に決闘を申し込む時である)。


 女性に最後通告を突きつけられて敗退したはずのセント・ジョンは「もし拒絶なさるなら、拒絶するのはわたしにではなく神にだということを忘れないで下さい。―略―その場合には、信仰に背いた人の中に数えられることがないよう、信仰を持たぬものにも劣ることのないよう、おののき恐れることが肝心です!」と牧師らしい捨て台詞を残して一旦休戦に入る。


 彼は負けたとは思っていない。それどころか神の栄光のために打ち倒すべき相手としてジェーン・エアを見定め、執拗な攻撃を仕掛けてくる。つまり、怒りをもって彼女を口汚く罵倒するのではなく、表面上は平常通り振る舞いながらも神に見放され締め出されたものに対するようにジェーン・エアを冷淡に扱い、さらに自分の姉妹たちには優しくして殊更にそれを見せつける……。出来の悪い母親が手に余る我が子にするようないじめであるが、信仰を精神的なバックボーンとする当時のイギリスの婦人にとっては内面から火であぶられるような苦痛だったであろう。


 ここでジェーン・エアは愛についての共通認識が得られない以上闘争を不毛と判断して珍しいことに和解を図ろうとする。が、そこをセント・ジョンにつけ込まれる。彼はジェーン・エアに拒絶の理由を無理やり言わせて、激しく心を傷つけられたと大激怒してみせるのだ。

 ジェーン・エアは術中にはまる。


 ―わたしは、さっそく彼の手をとって言った。「あなたを悲しませたり苦しめたりするつもりはありませんーけっして、そんなつもりはありません」


 ジェーン・エア、まさかのピンチ。

 男のように論理を操作した対決では無敵を誇ったジェーン・エアも、本来なら女性の専売特許であるはずの感情を絡めた搦手からの攻撃にはタジタジとなった。こういう搦手からの攻撃は女衒だとかジゴロだとかという女を食い物にする連中のお箱のはずなのだが、このセント・ジョンという牧師。できる。


 セント・ジョンはジェーン・エアの言葉尻を捉えてなおも攻撃の手を緩めない。

 ―「そうか!あなたは自分の体が大事なのですね」「いま、それを口にするなら、あなたは、頬を赤らめるべきだ。あなたはロチェスター氏のことを考えているのでしょう?」「わたしに残されたことは、祈りを捧げるとき、あなたの名を思い出すことだけだ。それと、あなたが見捨てられないように神に祈ることだ」


 真面目くさった様子でセント・ジョンがジェーン・エアの頭に手を置き迷える子羊の魂を救わんと真剣に祈ったとき、混乱したジェーン・エアは抱かなくてもよい良心の呵責に耐え切れずに戦いを放棄する誘惑にかられてしまう。

 ほとんど陥落状態である。


 ―「あなたとの結婚が神の思し召しであると確信できさえすれば、今、この場で、あなたと結婚することを誓いますー後にどういうことがあろうとも!」「わたしの祈りは報いられた!」


 ところが、ダウン間際にジェーン・エアはゴングに助けられる。


 ―「ジェーン!ジェーン!ジェーン!」

「いま行きます!」と私は叫んだ。「お待ち下さい!行きます!」


 こうしてジェーン・エアは不具となったロチェスター氏のもとへと戻っていき、ハッピー・エンドを迎える。


 手に汗を握るバトル「恋愛小説」(その情け容赦なさぶりに僕にはジェーン・エアがマカロニ・ウエスタンに出てくるクリント・イーストウッドにも見えてきた)。

 僕が小説『ジェーン・エア』のことを王道でない変化球の「恋愛小説」と言っていた意味はここにある(なお、上記のセント・ジョンとジェーン・エアの対決は前々回の『初恋』の「父」(「余計者」)とジナイーダとの対決とともに恋愛不感症者が相手になっているだけに似ているようにも見える。しかし、対決の意味合いが両者では大きく異なる。『初恋』では対決は主題に近いのに対して、『ジェーン・エア』ではその対決は父親との確執の克服という「大人の恋愛」の大前提を意味しているにすぎないからである)。


 「恋愛」に対する男女の感覚の違いについてのお話からズレてしまうが、セント・ジョンとの対決の意味についてもう少し言及したい。

 シャーロットは1847年に『ジェーン・エア』を出版しているが、これは父親の支配からの独立⇒足りない男性原理を求めて異性との交流を図るといういかにもユング派の心理学者が喜びそうな女性の成長物語をカール・グスタフ・ユング(1875年ー1961年)が生まれる30年近く前にすでにシャーロットは完成させていたことを意味する。つまり、書き手がそれだけ先進的にも自己分析をして人間を完成させていたということである。教師などの聖職者にふさわしい人物だったが、幸か不幸か、シャーロットは私塾を開くことをできずに代わりに小説を書いた。

 何が言いたいかというと、結局、シャーロットには先見の明があり優れた才能があったが、やはり小説家向きではなかったように思える。

『ジェーン・エア』をバトル「恋愛小説」ないし「大人の恋愛物語」とするのであれば、わざわざ不倫話にしてその言い訳に「怪物」化した狂女の妻、その放火による死、不具となったロチェスター氏などという嘘くさいスジを付け加えなくても、純粋に独身のロチェスター氏と牧師のセント・ジョンの間で心を揺らせるジェーン・エアを描けばそれで足りたはずだろう。その方がより効果的であり、構成がすっきりとして何を書いているのかが読み手にわかりやすくなる。

 しかし、なにごとにも真正面からぶつかって突破してきたシャーロットは不器用にも「書きたいことを書く」とばかりに、自己のエジェ氏に対する心情を優先してしまい、余計な苦労を背負い込むことになった。


 僕に『ジェーン・エア』ほどの作品が書けるかといえば、当然書けない。では、偉そうなことは言えないではないかとなるのであるが、上記のシャーロットの苦労が、僕には、小説というものはやはり読み手との対話であり、「書きたいことを書く」という自己完結になる恐れのある態度はよろしくない、とどうも反省を促されている気がしてならない(あっ。ということは男の書き手とはいえ「恋愛小説」の大半の読者である女性の心理に通じていなければならないということで、男女の感覚の違いというお話とつながるではないか。首尾一貫している。セーフセーフ)。自戒の念を込めて言及した次第だ。読んでくださっている方々には当然のことだろうから、気に留められる必要はないと思う。


 なんか偉そうな事を書いてしまって疲れた。

 今日は、ここまで。


 『ジェーン・エア』についてはまだ書き落としていることがあったと思うが、それについては今後必要な時に書き足そうと思う。

 

 毎回つまらないことばかり書き、読んでくださっている方々を落胆させてばかりいて心苦しいです。次回は「恋愛小説」としてウィキペディアで指定はされていない「性」を取り扱った「恋愛小説」を僕なりに例示して検証したいと思っております。『嵐が丘』についてはどうなったのだというご指摘もあると思いますが、『嵐が丘』については女性側の「特別視されたい」との承諾が無い以上「恋愛」として成立しておらず、したがって「恋愛小説」ではないので検証対象から省くことに致しました。文才のあるエミリー・ブロンテの力作であり、小説が面白いのは読めばわかるので僕の下手な解説はいらないのです。どうぞ読んでください。なお、ゴシック小説の大家レ・ファニュの「吸血鬼カーミラ」(創元推理文庫 平井呈一訳)を併読すれば面白さが倍増することと思います。拙い雑文をここまで読んでくださりありがとうございました。


 

 

 


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