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「恋愛小説が書きたい!」後編3

 今回もわけのわからぬ事を書いてしまい、申し訳ありません。本当はもっと楽しいことを書きたいのですが……。

 

 前回紹介した『自負と偏見』では、ヒロインの相手役の男ダーシーはエリザベスを見て「あんな下等でどうしようもない家にこんな聡明で魅力的な女性がいるなんて。ここはひとつ、僕が犠牲を忍んで(見下している家の人間とは付き合いたくないというプライドを捨てて)彼女を(身分を引き上げて)幸せにしてやろう。これは僕しかできないことだ!」と思い込んでプロポーズをする。


 ここでも男性の「オレは彼女の人生で必要とされている!」のテーゼが働いていることが分かる(前回冒頭で説明した「男は『恋愛』に何を求めているのか?」を参照)。

 しかし、ダーシーはエリザベスにとって「自分を特別視してくれる」男性であっても、「自分を特別視して欲しい」男性ではなかったため、拒否られて最初のプロポーズは失敗に終わる(考えてみればダーシーの最初のプロポーズは相当ひどいものだったから、拒否して当然、拒否されて当然であった。何の同情も起こらない)。


 ともかく。

 このように男性の立候補に対して女性の側が遺憾の意を表すことを世間では、「失恋」と呼ぶ。

 男がいくら「僕はあなたの人生で必要な男です。お役に立ちたい!」と立候補しようとも、相手の女性に「はあ!?間に合ってますけど」と言われてしまえば「恋愛」は成り立たないのだ。

『自負と偏見』の場合、(「恋愛」の成立するためには、)ダーシーが「プライド(自負)」が中身のない空っぽでむしろ人生にとって有害なものと気づくだけでは足りずに、エリザベスも自身がよく知りもしないまま「偏見」という自分だけの正義で他人を裁いていたことがどれほど愚かしいかについて気づく必要まであった。エリザベスが気づいてはじめてダーシーは「自分を特別視してくれる」男性という必要条件だけでなく、「自分を特別視して欲しい」男性という十分条件をも満たし得たのである。


「特別視して欲しい」男性への昇格は男性単独の努力でなんとかなるものではなく、相手の女性の見方を変えなければならないという難事業であって、男性はそのせいで苦労が尽きない。世の男性諸氏が「今すぐ始めよう!2015年こそモテる男になるための10の行動」という銀座のホステスさんの書いた記事まで読んで自己鍛錬に励もうとするのも、そういうことである。健気な彼らを軽蔑したり責めたりすることは酷というものだ。


 もっとも、女性の方々もただ漫然と白馬に乗った王子様を待っているわけではないらしい。

 古来より女性たちも「自分を特別視して欲し」くて「女子力を磨く」等相当な努力をしている事実があるのである(そうでなければ、化粧品メーカーやファッション業界など成り立つはずもない。もっとも、昨今の結婚相談では無闇に女子力を上げることについては疑問の声が上がっているらしい。身の丈に合わない外見をいくら飾っても結婚後化けの皮が剥がれて相手が「特別視してくれ」なくなりますよ、という忠告である。まっ。結婚がゴールである王道の「恋愛小説」では関係ないことであるが。ともかくよさげな男子をひっ捕まえてゴールしてしまえば、一応は勝ちなのであるから)。


 で。

 今回検証するツルゲーネフの『初恋』であるが、この小説は少年の「失恋」をテーマにしたものである、一応は。

「失恋」話というだけで、すでにハッピー・エンドになるはずの王道の「恋愛小説」と真っ向から対立しており、これを「恋愛小説」に入れて良いのかという問題が出てくるのだが、今回は目をつぶってもらおう。『初恋』には、そんなことよりもより異質な要素が含まれているからである。


 僕が『初恋』という小説の存在を知ったのは、大昔、大学受験のためお世話になった予備校の講師からである。彼は論文の書き方について教えていたから、たぶん文学部の大学院生かオーバー・ドクターであったのであろう(「ポスト」待ちのため予備校教師や高校の講師をしている人が当時多かった)。

 彼は言う。「『初恋』には全てが詰まっている。自分は『初恋』を読んで『恋愛』というものを知った。是非とも(少年のうちに)読んで欲しい小説だ!」

 彼の熱弁で気になったので、大学に入ってから読んだ覚えがある。ツルゲーネフについては中学生の頃から『猟人日記』だの『父と子』だのを読んで気に入っていたので(実に格好付けの生意気なガキ!)、『初恋』を読むことに抵抗はなかった。

 だが、読んでもあまり面白くはなかった。予備校講師の彼の言とはまるで違う印象を受けてしまったのだ。

 その後、人づてにツルゲーネフのファンには『初恋』から入った人が多いことを知る(本当かどうかは統計を見たこともないのでわからない)。

 しかし、そのことについても納得がいかない。

 後述するように『初恋』は非常に難解だ。最初に『初恋』から入ってどうしてほかのツルゲーネフの作品に繋げることができるのだろうか。


『初恋』のあらすじはー(本来なら僕個人がいちからまとめるべきことなのだが、今回はウィキペディアに載っている『初恋』のあらすじを少しだけ使わせてもらうことにした。まとめるのは能力がなくて辛いし、表面をなぞるだけならその道の達人にしてもらった方が有意義だから。学術論文じゃないしね。しかし、酷すぎた。大部分手直ししなければいけなかったのはどういうわけだろう)


 1833年夏。ネスクヌーイ湖のほとりの別荘で過ごしていたわたし(16歳の少年)は、隣に引っ越してきた年上の美しい女性、ジナイーダに淡い恋心を抱く。だが、ジナイーダはいわばコケットで、彼女に惚れる何人もの「崇拝者」達を自身の家に集めては、いいようにあしらって楽しむような女性だった。

「自分が見下さなければならないような男には興味が無いの。私が興味があるのは、むしろ自分を服従させる人だけ」

 だが、そんな状況はある日を境に一転する。その日、明らかに様子がおかしいジナイーダを見て、主人公のわたしは直感したのだ。彼女は誰かと恋に落ちたのだと。

 わたしの本当の苦しみはここからだった。疑心暗鬼にさいなまれ、崇拝者達を見てはジナイーダの恋の相手ではないかと疑うわたし。一方のジナイーダも自身の恋に苦しむ。

 彼女の態度は、なぜか主人公のわたしに対してだけ特別だったし、よく急転した。ある瞬間には主人公のわたしを思いつめたような青ざめた顔で見つめ、突き放したかと思えば、次の瞬間には急にやさしくなった。別の瞬間には、これまで弄んだ事を突如謝まり、これからは恋人ではなく家族か何かのようにつきあいたいのだと言い出す。

 そんな彼女の態度に主人公のわたしはさらに思いつめていく。

 ある日彼女の恋の相手の断片的な情報を掴んだわたしは、その正体を知るべく、嵐の晩に彼女の家のそばの茂みで待ち伏せする。手にはナイフを忍ばせながら。

 そして件の男が通りかかる。だが、その男は主人公のわたしの父だった(主人公のわたしにとってあまりに衝撃的だったので恋敵と父を結び付けられず、それと認識したのはだいぶ後からである)。

 それからしばらくして、崇拝者の一人がしたらしい母宛の密告の手紙のせいで主人公たちはモスクワに引き上げることになった。

 引き上げる直前、主人公はジナイーダに出くわす。

「ほんとに、わたし、そんな女じゃないの。わたし知っててよ、あなたがわたしのことを、悪く思ってらっしゃることぐらい」

「僕が?」

「そう、あなたが……あなたがよ」「いいえ、ジナイーダ・アレクサンドロウナ。あなたがどんなに私をお苛めなさっても、どんなに苦しめなさっても、一生あなたを愛します、崇拝します」

 こうして引き上げた主人公のわたしだったが、ある日のこと、一緒に遠乗りに出かけたはいいが父が途中で姿をくらませてしまい困惑していたところ、偶然、その父がジナイーダと密会しているのを目撃してしまう。

 父は彼女に何かを承諾させようとしていたが、彼女は献身、嘆き、愛、絶望が複雑に入り混じった微笑を浮かべるばかり。苛立った父は突然、手にしていた乗馬用の鞭で彼女の腕を打つ。が、次の瞬間、ジナイーダがその鞭の傷に接吻をして、父は逃げ出す……(✽僕自身この部分を読み違えていました。修正しておきますね)。

 その夜、主人公のわたしは出くわした一連の奇妙な光景を省みる。

「これが恋なのだ」「これが情熱というものなのだ!……ちょっと考えると、たとえ誰の手であろうと……よしんばどんな可愛らしい手であろうと、それでぴしりとやられたら、とても我慢はなるまい、憤慨せずにはいられまい! ところが、一旦恋する身になると、どうやら平気でいられるものらしい。……それを俺は……それを俺は……今の今まで思い違えて……」

 それからしばらくして父は急死する。

 亡くなる数日前、手紙が来て興奮し、あんなに冷酷だった父がジナイーダらしき人物に大金を送ってやって欲しいと母に泣きながら懇願する様子を主人公のわたしは目撃する。亡くなった父のわたしへの書きかけの手紙には「女の愛を恐れよ。この幸福を、この毒を恐れよ…」という言葉が残されていた。

 数年後、主人公は「崇拝者」の一人と偶然再会し、ジナイーダの近況を知る。彼女はすでに誰かと結婚して、近くに来ているのだという。彼女に会いに行こうと思う主人公だったがつい先延ばしにしてしまう。そして主人公がようやく会いに行くと、ジナイーダが数日前に急死したのだと知る。刺すような痛みが主人公を襲う。もう少し早くくれば会えた筈なのに、永遠に会えなくなってしまった……。


 ウィキペディアのあらすじに重要なキーワードがいくつか抜けているとしても、皆さんはここまでお読みになってなにかしら奇異に感じられることがあったはずだ。


 そう。刺し殺す覚悟までして主人公のわたしは謎の恋敵の待ち伏せをしていたはずなのに、それが父と分かってからの主人公の態度が妙に大人しい……。「失恋」した少年の嫉妬から罵倒や殴り合いのひとつやふたつあってもいいはずだろう、普通は。だが、それがない。映画などでもよく取り上げられる題材のはずなのに、である(たとえば大戦末期の7人の少年兵の悲惨な末路を描いた西ドイツ映画「橋」。少年の一人ヴァルターは恋心を抱いていた家政婦のアンニが党幹部で地区長の父と不倫をしていることに激高して家を飛び出し入隊している)。


『初恋』のなかの「父」は自分に対しても他人に対してもかなり冷酷な人物として描かれている。もちろん「父」は息子である主人公のわたしに対しても可愛がるようなことはしない。ときおり内容のない優しげな言葉をかけてくる程度である。それでも、主人公のわたしは「父」を憎まないし嫌いもしない。空虚な優しげな言葉をかけてもらっただけで有頂天になってしまう。見えない「父」の大きな手で何度も振り払われて近寄らせてさえももらえずとも、遠くにいる「父」を眺めるだけで主人公のわたしは尊敬しああいう男になりたいと望んでしまう。

 かなり異常なことである。


 美男の「父」が母と結婚したのは、母が裕福な大地主であったことによる。「父」はそれを隠そうともせず、すべてのものを冷笑して暮らしている。普通の男性なら妻に財布の紐を握られていると萎縮してしまうものであるが、この「父」にはそんな様子は見られない。勝手気ままに生活をしている。母はそんな「父」を恐れ常に遠慮がちである(『初恋』はツルゲーネフの半自伝的小説だと言われているが、美男で落ちぶれた小地主であった父が財産目当てで大地主の母と結婚したことと、なにかの拍子にツルゲーネフに「女の愛を恐れよ。この幸福を、この毒を恐れよ」という言葉を語ったこと以外に一致することはなにも書かれていない。ツルゲーネフの母は少しでも気に入らないことがあると平気で使用人たちを鞭で殴らせる気難しくて厳格な、まるで『中世の女領主』と息子から評された典型的な曠野の女地主であった)。


 ツルゲーネフはこの「父」をどんな人物として描こうとしているのであろうか?

 ここからは僕の推測である(僕は文学部出身でもないし、ロシア文学の評論家でもない。学術書を読んで研究したこともない。完全な私見であることをあらかじめお断りしておく)。

 『初恋』(1860年発表)が世に出される4年前、ツルゲーネフは『ルージン』という小説を発表している。『ルージン』はいわゆる「余計者」を題材にした小説である。

「余計者」は、日本人にはなかなか理解しがたい人種である。僕も正直に言ってわからない。ドゥドィーシキンというロシア人評論家によると、「余計者」とは「なんらの義務も感じず、一般の人達と協調することがない」社会の逸脱者と定義されるらしい。一般の人々は日常生活において労働を楽しくてしているのではなく義務と感じて行っているのであるが、「余計者」はそんな義務すらも感じない。また、「余計者」はなんらかの悩みを抱えていて「オレはそこらへんの凡百とは違うんだ」という意識で社会に埋没する一般の人々を見下しており、一般の人々と日常生活において譲り合いをすることもない。

 簡単に言ってしまえば、「余計者」というのは自分から他者に対して「思いやり」を示すこともなければ、他者から「思いやり」を注がれることも拒絶する拗ね者ということになる。大抵のひとたちが自分から他者に対して「思いやり」を示すことは当然で他者も自分に対して「思いやり」を示すはずだと考えていることからすれば、「余計者」はその対局に位置するものといえる。

 パターン的には、自分からは「思いやり」を示さないが他者からは示してほしいエゴイストと、自分からは「思いやり」を示すが他者からの受け取りを拒絶する博愛主義者とがほかにいることになるが、両者は社会に淘汰されて絶滅してしまうらしい。ゆえに、この世は相互の「思いやり」が当然と考えているマジョリティとそれを拒否する「余計者」というマイノリティで構成されていることになる(以上は「戦う哲学者」中島義道氏の片言を勝手に説明上便利だと思い使わせてもらった。正確なものではなく、世の中の一般常識でもない)。

 日本では「余計者」に似たものに「高等遊民」というものがある。夏目漱石はこの言葉を『吾輩は猫である』で既に使っている。小説では理学博士水島寒月の縁談がこじれ、娘の母親が怒鳴り込んできたことに対してくしゃみ先生たちが「鼻」「鼻」と馬鹿にする他に「月並み」「月並み」と見下すシーンがあるが、これは典型的な「余計者」が社会に埋没している一般の人々を見下す態度である。


 このように「余計者」ないし「高等遊民」をイメージした場合、『初恋』の何に対しても冷笑的な態度を取る「父」に重なる。そこで、ツルゲーネフは「父」を「余計者」として描いているというのが僕の考えである。

 こう考えると、「父」がジナイーダを鞭でひっぱたいたのも、死の数日前、あれだけ強圧的だった「父」が母に対して金を送るよう泣いて懇願したことも、さらに息子である主人公のわたしに「女の愛を恐れよ。この幸福を、この毒を恐れよ…」という謎の言葉をのこしたことも納得がいく。つまり、21歳の小娘であるジナイーダのせいで42歳の「父」の「余計者」としてのアイデンティティが崩されそうになり鞭までふるって拒絶しなければならなかったし、崩されてしまったがゆえに本来他人に「思いやり」を示すはずのない「余計者」の「父」が日頃の態度を変えて母に送金を懇願する破目に陥っていたのである。残された謎の言葉はアイデンティティを崩されてしまった「父」の息子に対する最後の忠告だったのである。

 他人を「思いや」ることのない「余計者」は「君の人生に僕は必要だ」と立候補することはないし、相手を「特別視する」こともありえない。「余計者」との間にそもそも「恋愛」は成立しないのである。だから、女王様気取りだったジナイーダも「父」に恋したため死ぬほど苦しんだのであり、「父」のアイデンティティを崩してもなお「恋愛関係」は成立しなかったといえる(ジナイーダをひっぱたいた鞭をどうしたかというわたしの問いに「父」は「捨てたのさ」と答えるシーンが象徴しているように、「父」は最後まで「恋愛関係」になることを拒む)。

 

 このように僕には『初恋』という小説をウィキペディアの書き手が強調するように少年の「失恋」をテーマにしたものでも鞭で美女をひっぱたくという反道徳的要素を含んだ「恋愛小説」にも読めない。

 これは、「余計者」と恋愛を仕掛けるコケットな美女との対決の小説なのである。もっと言うならば、「思いやり」を受け入れさせようとするマジョリティとそれを拒む「余計者」というマイノリティの対決のお話なのである。普通の男女間の「恋愛」とはまったく関係しないお話であるがゆえに、『初恋』は「恋愛小説」では断じてありえない。

 僕が前回の終わりで『初恋』について危ない小説と呼んだ理由がこれでお分かりであろう。

 書き手があまりに真面目すぎて抱えている文学的テーマと正面からぶつかったため、本来「恋愛小説」となるべき少年の失恋話が変質化してしまい、外面とは似ても似つかぬ小説ー教養小説とでもいうのだろうかーになってしまったのだ(ツルゲーネフという男は晩年宗教にのめり込んだトルストイに対し「文学に戻れ」と引き戻すため絶縁状を送り決闘まで申し込んでいる。同様に友人の社会主義者ゲルツェンが革命を直接呼びかけた時にも引き戻すため絶縁状を送り決闘の申し込みをしている。その文学に対する真面目さを夢々侮るなかれ✽ツルゲーネフがゲルツェンに自著の小説「けむり」を送ったもので、以前書いていたことは間違いでした。修正しておきますね。ツルゲーネフの詳細な年表を持っていたのですが、どこかに散逸してしまい記憶だけで書いてまして申し訳ありません)。


 結論。男性の書き手といえども「恋愛小説」には普通の男女間の「恋愛」感情に関わらない要素を盛り込んではならない。そんなことをするとその小説は「恋愛小説」ではなくなってしまう。


 ふっー。真面目な話を書きすぎて僕の頭は働かなくなってしまった。こういうのは僕には向いていない。つくづく思う。ツルゲーネフが真面目すぎるのがいけないんだ。あと、ろくに作品も読まずに勝手に解説を書く奴も悪い。と思う。たぶん。

 疲れた。

 今日は、ここまで。


 次回は、女流作家による王道を外れた「恋愛小説」、『嵐が丘』『ジェーンエア』を検討したいと思う。僕にとって苦手も苦手、大苦手な作品であるうえ、手元になく、いま発注中というていたらく。書くまでに少し時間が掛かるやもしれません。


 文才がなく、面白くもない話を書き殴ってしまいました。ここまで読んでいただいた方々には恐縮しております。ありがとうございました。


 申し訳ありません。

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